●国宝 松本城
本日は、久々に史跡報告を。
このところ史跡報告は愛知県内の史跡ばかりでしたが、久々に愛知県外にある
史跡見学の報告です。
見学したのは1ヶ月以上前の10月下旬でしたが、既に紅葉が始まりかけており
ました。
当ブログでは幾たびか説明しておりますが、現存天守の内の国宝は、 福井の
丸岡城 、 犬山城 、姫路城と松本城の4城です。
その中で松本城は、5重6階の大天守を中心として、北面に乾小天守を渡櫓で
連結し、東面に辰巳附櫓と月見櫓を複合した複合連結式天守です。
永正年間 ( 1504年~1520年 ) に信濃守護家の小笠原氏が林城を築城されて、
その支城のひとつとして深志城を築城されたのが始まりといわれております。
その後小笠原長時氏が守護職時代に武田信玄公によって没落され、信玄公は
林城を破棄し深志城を信濃の拠点としますが、武田家衰退後の1582年 ( 天正
10年 ) に徳川家康公の配下となった小笠原貞慶氏が信濃守護家に復領して、
松本城と改名されました。
天守の建造時期には所説がありますが、現在ではおそらく1591年~1615年の
間に大天守が建造されたと考えられております。
また1950年~1955年の解体修理時に改築された痕跡が幾つか発見された事や、
近年に発見された資料などから、創建当時は望楼型をしており、最上階には
外廻縁高欄があった様ですが、1633年( 寛永10年 ) の改築時に付櫓と月見櫓が
増築され、層塔型天守の現在の姿に造りかえられたと推測されております。
明治維新後の1872年 ( 明治5年 ) には競売にかけられて、当時は解体の危機も
ありましたが、1897年 ( 明治30年 ) 頃より軟弱な地盤の上、更に自重にもより
天守が大きく傾き始め、1901年に天主保存会が設立され1903年( 明治36年 )より
1913年(大正2年)にかけて「明治の大修理」がおこなわれました。
更に1950年(昭和25年)~1955年(昭和30年)にかけて「昭和の大修理」と呼ばれる
解体復元工事が行われ、それまで黒色の外壁に貼られた下見板は墨を原料に
塗られていましたが、解体修理時に漆塗りの痕跡が見つかった事から、黒色の
漆塗りに改められました。
自分が住んでいる名古屋市内からは、高速道路を使えば約3時間30分ほどで
行けます。
自宅を出発した時は、半そでTシャツに薄手のものを羽織る程度で運転中の
車の中では半そでTシャツだけで十分でしたが、松本市内に着くと歩いてる
皆さん、厚手のフリースやコートを着てらっしゃいます。
市営松本城大手門駐車場に車を止めて、車から降りて判りました。
確かに紅葉が始まる季節の寒さでした。
黒門を抜け、写真左の二の門(高麗門)を経て本丸御殿跡に進みます。
さすが松本城、平日と言うのにどの写真にも観光客の姿が写り込んでしまい
ます。
天守内部へは、大天守と乾小天守の間の渡櫓から入る事ができ、コース通りに
進めば、乾小天守(写真の右の櫓)、大天守、月見櫓(写真の左の櫓)が順番に
見られます。
乾小天守の最上階の室内です。
上り下りする階段はひとつしか無く、仕切りなしに訪れる観光客が多くて、
降りるのに順番待ちが出来てました。
大天守内には広さを生かして多くの展示物がありますが、他の地域の城でも
よく見かける具足、火縄銃、過去に飾られていた天守の鯱や柱などに加えて、
飾り火縄銃、大筒はあまり見かけない展示物で、自分的には珍しかったです。
やはり現存天守、ほとんどの階段が急勾配なので手すりが完備されてます。
大天守の最上階の屋根裏には、守護神の「二十六夜社」が奉られておりました。
写真右は最上階ではなく、途中の階層の窓から見た朱色の埋橋あたりです。
月見櫓の中からは、紅葉の景色が見れました。
本丸御殿跡への出入りは南側の黒門と、もうひとつ西側にある本丸虎口からも
出入りできますが、今回、自分は黒門から入って本丸小口から出ました。
朱色の埋橋越しに見た大天守と乾小天守です。
黒い城壁に朱色が映えて、沢さんの方達が記念撮影をされてました。
やはり木造のお城は、良いですね~