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2009年12月15日

●国宝 松本城

本日は、久々に史跡報告を。
このところ史跡報告は愛知県内の史跡ばかりでしたが、久々に愛知県外にある
史跡見学の報告です。
見学したのは1ヶ月以上前の10月下旬でしたが、既に紅葉が始まりかけており
ました。

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当ブログでは幾たびか説明しておりますが、現存天守の内の国宝は、 福井の
丸岡城
犬山城 、姫路城と松本城の4城です。
その中で松本城は、5重6階の大天守を中心として、北面に乾小天守を渡櫓で
連結し、東面に辰巳附櫓と月見櫓を複合した複合連結式天守です。

永正年間 ( 1504年~1520年 ) に信濃守護家の小笠原氏が林城を築城されて、
その支城のひとつとして深志城を築城されたのが始まりといわれております。
その後小笠原長時氏が守護職時代に武田信玄公によって没落され、信玄公は
林城を破棄し深志城を信濃の拠点としますが、武田家衰退後の1582年 ( 天正
10年 ) に徳川家康公の配下となった小笠原貞慶氏が信濃守護家に復領して、
松本城と改名されました。

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天守の建造時期には所説がありますが、現在ではおそらく1591年~1615年の
間に大天守が建造されたと考えられております。

また1950年~1955年の解体修理時に改築された痕跡が幾つか発見された事や、
近年に発見された資料などから、創建当時は望楼型をしており、最上階には
外廻縁高欄があった様ですが、1633年( 寛永10年 ) の改築時に付櫓と月見櫓が
増築され、層塔型天守の現在の姿に造りかえられたと推測されております。

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明治維新後の1872年 ( 明治5年 ) には競売にかけられて、当時は解体の危機も
ありましたが、1897年 ( 明治30年 ) 頃より軟弱な地盤の上、更に自重にもより
天守が大きく傾き始め、1901年に天主保存会が設立され1903年( 明治36年 )より
1913年(大正2年)にかけて「明治の大修理」がおこなわれました。

更に1950年(昭和25年)~1955年(昭和30年)にかけて「昭和の大修理」と呼ばれる
解体復元工事が行われ、それまで黒色の外壁に貼られた下見板は墨を原料に
塗られていましたが、解体修理時に漆塗りの痕跡が見つかった事から、黒色の
漆塗りに改められました。

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自分が住んでいる名古屋市内からは、高速道路を使えば約3時間30分ほどで
行けます。
自宅を出発した時は、半そでTシャツに薄手のものを羽織る程度で運転中の
車の中では半そでTシャツだけで十分でしたが、松本市内に着くと歩いてる
皆さん、厚手のフリースやコートを着てらっしゃいます。

市営松本城大手門駐車場に車を止めて、車から降りて判りました。
確かに紅葉が始まる季節の寒さでした。

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黒門を抜け、写真左の二の門(高麗門)を経て本丸御殿跡に進みます。
さすが松本城、平日と言うのにどの写真にも観光客の姿が写り込んでしまい
ます。

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天守内部へは、大天守と乾小天守の間の渡櫓から入る事ができ、コース通りに
進めば、乾小天守(写真の右の櫓)、大天守、月見櫓(写真の左の櫓)が順番に
見られます。

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乾小天守の最上階の室内です。
上り下りする階段はひとつしか無く、仕切りなしに訪れる観光客が多くて、
降りるのに順番待ちが出来てました。

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大天守内には広さを生かして多くの展示物がありますが、他の地域の城でも
よく見かける具足、火縄銃、過去に飾られていた天守の鯱や柱などに加えて、
飾り火縄銃、大筒はあまり見かけない展示物で、自分的には珍しかったです。

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やはり現存天守、ほとんどの階段が急勾配なので手すりが完備されてます。

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大天守の最上階の屋根裏には、守護神の「二十六夜社」が奉られておりました。
写真右は最上階ではなく、途中の階層の窓から見た朱色の埋橋あたりです。

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月見櫓の中からは、紅葉の景色が見れました。

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本丸御殿跡への出入りは南側の黒門と、もうひとつ西側にある本丸虎口からも
出入りできますが、今回、自分は黒門から入って本丸小口から出ました。

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朱色の埋橋越しに見た大天守と乾小天守です。
黒い城壁に朱色が映えて、沢さんの方達が記念撮影をされてました。
やはり木造のお城は、良いですね~

2009年12月01日

●国宝 金蓮寺の弥陀堂

結局、本日の写真を撮る為に約2週間の間に3度も通いました。
1度目は曇り空で、2度目は工事中と、1度目は産まれて初めての吉良町への
訪問だったと言うのに、今ではここへはすっかりナビ無しで行く事が出来る様に
なりました。

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愛知県にある国宝の建物は3ヶ所で、先日報告済みの、 犬山城 とその近くの
名鉄犬山ホテル内の有楽苑に建つ茶室の如庵(じょあん)、そしてもうひとつが
吉良町の金蓮寺(こんれんじ)の弥陀堂 です。

創建されたのは、1186年(文治2年)。
源頼朝公が三河国守護職の安達籐九郎盛長に命じ、鳳来寺弥陀堂や財賀寺など
三河に造らせた7ヶ所の阿弥陀堂の一つにて、現存するただひとつの阿弥陀堂で、
愛知県内で最古の建造物です。

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創建時は真言宗寺院光福寺の子院のひとつでしたか、1340年(暦応3年)に足利
尊氏公が現在の場所に移築し、青蓮山金蓮寺と号したと言われており、江戸時代
寛政年間(1789年~1801年)初期に曹洞宗に改められたそうです。

創建以来、1678年(延宝6年),1805年(文化2年),1905年(明治38年)等、何度か
大きな修理を行って原形を保存してきましたが、 1945年(昭和20年)の三河地震に
よって倒壊の危機に陥り、その時の解体修理にて瓦葺に変更されていたものを
創建時の桧皮葺に戻すなど、創建当寺の現在の姿に復元されました。

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鎌倉初期の建造物にて当時の建築様式をよく保存しておりますが、外から見える
木材類は、ほとんど昭和の修理の時の物だそうですので、古いは古いんですが
創建時そのものではないとすると、ちょっと考える所がありますね。
でも、京都や奈良の国宝建造物も考えれば、ほとんど後の世代に修理されている
物と思いますので、風雪にさらされる建造物は仕方が無いのかも知れません。

最初に行った時はカーナビにインプットして目指しましたが、吉良町内に入っても
行く途中で一般的に国宝建築物なら良くある道路標識みたいな案内板をひとつも
見かけません。
最後の最後にナビが「目的地周辺です」とアナウンスして、「ここら辺かぁ~」って
思ったら、やっと50m程手前に看板がありました。

金蓮寺の無料駐車場に車を止めて、石で出来た正門から入ろうとすると、すぐに
正面に弥陀堂 が建っているのが見えました。

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写真左は正門から見た姿、写真右は駐車場内に併設されてるトイレの外壁に
貼られた近隣名所の案内板です。

普通、国宝の建物であれば見学料とか、係の人が監視してたりとかしますが、
何にも有りませんし、誰もいません。
誰でもいつでも勝手に入って、勿論、外観だけですけど見学できますし、境内に
建ってる古くから建ってそうな写経大般若経堂の横には、犬小屋があって犬が
鎖で繋がってます。

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左端に犬小屋が設置されてる写経大般若経堂、真ん中には白い猫の絵が・・・。

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「本当に国宝?」って感じの雰囲気で、流石に弥陀堂 の縁側(?)には立ち入りを
禁ずると書かれており、説明板が建ってたりしますので、国宝とは判りますが、
おそらく今まで自分が見てきた国宝の中で、一番、セキュリティーがおおらかな
ものでした。
おかけで、じっくりたっぷりと縁の下までライトを当てて観察出来ました。

寺宝は愛知県重要文化財の運慶作と伝えられている阿弥陀仏ですが、運慶が
作ったと言う確認は取れていないそうです。
なので国ではなくて、愛知県の重要文化財なんでしょうかね?

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境内には他にも、本堂、三河観音堂、鐘楼、庫裡、お不動さんの名水、庭園や
三十三観音石仏像などがありました。

最寄りの公共機関は名鉄西尾線の三河荻原駅です。
名古屋駅からだと名鉄本線に乗って、新安城駅で乗り換えて、三河荻原駅から
歩いて15分程かかりそうですので、駐車場も完備されてますから車で行く方が
速くて便利かと思われます。

結局、自分は3度見学に行って、お会いしたのはご住職さんと、お参りに来てた
おばあちゃんと中年の女性の方、土木工事の方達、岡崎から見に来たと言って
られた若い女性の方の以上、結局、自分以外の国宝見学者はたったのひとりと
あまり観光客がやって来る様な国宝ではありません。

見学料は無料なので、見学にかかる費用は交通費とお賽銭だけ。
時間が許す限りひとりで独占して、のんびりと見学が出来る国宝でした。

2009年11月29日

●半田市の 赤煉瓦工場

先日の赤煉瓦つながりで、本日は赤煉瓦の建物では愛知県内で一番有名な
赤煉瓦工場の報告です。

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この赤煉瓦工場は、名古屋市から南へ車で約40分ほどの距離の半田市に、
1898年(明治31年)10月に丸三麦酒株式会社の醸造工場として建築された
建物にて、明治33年のパリ万国博覧会で金賞に輝いた「カブトビール」を醸造
しておりましたので、現在では「旧カブトビール工場」と言われております。

設計者は、横浜の赤煉瓦倉庫を設計された明治時代の建築界の巨匠のひとり、
妻木頼黄氏です。
現存する赤煉瓦建築物としては、東京駅、横浜赤煉瓦倉庫、北海道庁に次いで
全国4位の大きさであり、煉瓦建造物にしては珍しく5階建ての高層建築物にて、
建築時の棟札でも「煉化石造5階家」(総建坪、約582坪) と、なっております。

先日報告ずみの 大浜漁協の赤煉瓦倉庫 と同じイギリス積みの赤煉瓦造りでも
大きさは10倍ぐらいと大きな建物です。

その後、丸三麦酒株式会社は日本第一麦酒株式会社に吸収合併され、1908年
(明治41年)に加冨登(かぶと)麦酒株式会社に社名を変更し、大正期にも増築が
繰り返されてきましたが、1943年(昭和18年)に大平洋戦争の激化にて、ビールの
生産は停止されました。

戦争末期頃には、中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として使われていた事で、
アメリカ軍によって攻撃目標とされてしまい、小型戦闘機P51によって機銃掃射を
浴びた無数の弾痕跡が、現在でも北側壁面にはっきりと残っております。

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写真の左部分に写っている黒い穴が弾痕跡です。

戦後の1949年(昭和24年)からは、日本食品化工株式会社のコーンスターチ加工
工場となってましたが、1996年(平成8年)に老朽化が進み工場は閉鎖し、煉瓦造
4階建の「浸漬」、「醸造」部門、汽罐室や煙突などが解体されましたが、取り壊し
しなかった残りの建物を半田市が買い取り、平成16年に国の登録有形文化財に
指定されました。

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基本的には施錠された柵の中に建っており、建物の中へは入れませんが、年に
数回、半田市が中の見学会を設定しております。
建物には季節柄か、クリスマスのデコレーションアップがなされてました。

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クリスマスリースには、黄ない「ごんぎつね」も付いてます。
半田市は、小学生の教科書に使われてる「ごんぎつね」の作家の新美南吉氏の
出生地にて、新美南吉記念館もあります。

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こちらは先日報告ずみの 大浜漁協の赤煉瓦倉庫 とは違って、国の登録有形
文化財に指定されております。
外観だけなら年中いつでも見学が可能ですから、 大浜漁協の赤煉瓦倉庫 とは
有料道路の衣浦海底トンネルを使えば車で20分ぐらい離れてるだけですので、
セットで見学されるのも面白いと思いますよ。

2009年11月27日

●碧南市大浜漁協の赤煉瓦倉庫

先日のNEWSで、昭和初期に建てられた赤煉瓦倉庫のひとつが、来年1月に
壊される事を知ったので、慌てて撮影してきました。

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名古屋市近郊の碧南市の大浜漁港に建ってる通称赤煉瓦倉庫にて、写真の
真ん中辺りの赤い建物です。
正式には、大浜漁業協同組合所有の旧冷凍冷蔵庫と言います。

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上の写真が北東から撮したのに対して、北西から撮したのが左の写真。
写真右は、対岸に建っている大浜漁業協同組合製氷部の建物です。

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碧南市は名古屋から南へ約40Km、名古屋駅からは私鉄名古屋鉄道で約1時間、
車では45分ほど走ったところにある、2009年10月31日現在人口が73,393人の、
昭和23年に愛知県で10番目の市になりました。

この赤煉瓦倉庫は碧南市の大浜漁港に面して建っており、1927年(昭和2年)に
旧大浜製氷会社の貯氷庫として建築され、大浜漁協が1994年に東海冷蔵から
購入して冷蔵庫に改修し、2001年12月まで使用しておりました。

愛知県内では珍しい、長方形の煉瓦の長手長い面)を表にして積む段と、小口
(最小面)を表にして積む段を交互にして強度を高めた積み方の"イギリス積み"の
倉庫にて、間口8,9m、奥行き16,2m、高さ11,3mの大きさで、南北の間口面に
開き戸があるレンガ壁を露出させた仕上げになっております。

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煉瓦の"イギリス積み"ですが、写真右のアップの写真で判りやすいかと思います。

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写真左は南側、写真右は北側の各間口ですが、北側の間口のフタの一部には
発砲スチロールが使われており、いかにも漁協さんの雰囲気が出てました。

愛知県三河地方に大きな被害を出した1945年1月の三河地震や、1959年9月の
伊勢湾台風にも耐え抜いたレトロ感たっぷりの建物でして、大浜漁協さんは
保存も兼ね有効活用が無いか何度も検討されてきたそうですが、耐震調査の
結果、数千万円にも昇る高額な補強整備費用がかかることから、取り壊しが
決定されたそうです。

因みに取り壊した後の跡地は、漁業にふれあう広場として一般に開放される
そうで、煉瓦の一部は広場に残される予定だそうです。

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折角、碧南までやってきたので、ついでにと碧南海浜水族館の見学に来たところ、
なんと休館日でした。

勿論、事前に何も調べずにやってきた自分が悪いのですが、平日の見学は空いて
いても、先日報告の 福井の丸岡城 の時や、 金蓮寺 の時みたいに、偶にこういう
アクシデントに遭遇する事が難点です。

2009年11月24日

●瀧山寺と、瀧山東照宮 その3

本日は瀧山寺シリーズの最終回、瀧山東照宮です。
全体に曇り空の写真が多くなってしまい、申し訳ありません。

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東照宮とは徳川家康公を神様として奉られた神社にて、江戸時代初期の頃に、
幕府によって建立された物や、全国各地の徳川一門、松平一門など大名家や、
譜代大名家、外様大名家も建立されており、最大時には全国で500社を超えて
おりましたが、明治6年の神仏分離における廃社などによって現存しているのは
約130社とされております。

その中で瀧山東照宮は、日光東照宮、久能山東照宮などと同様に幕府によって
建立された東照宮のひとつであり、1645年(正保2年)に徳川幕府3代目将軍の
徳川家光公が瀧山寺境内に創建されました。
尚、前述の明治6年の神仏分離により、現在では瀧山寺と瀧山東照宮は別法人と
なっております。

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 西方向から見た姿の写真、右端に写っているのが水屋、続いて真ん中が
 拝殿・幣殿で、中門があり、その左が本殿です。

位置的には瀧山寺境内の本堂東側のいち段小高くした整地面に、全体を石柵で
囲まれて建立されており、境内から石鳥居を通って入る事になります。
石鳥居の北側に東向き水屋が建ち、その東北に南向きに拝殿と幣殿が一つの
建物で建っていて、拝殿・幣殿の北側の更にいち段小高い整地面に中門が建ち、
その北奥に本殿が建っており、全て国の重要文化財に指定されております。

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「瀧山寺縁起」によれば、瀧山東照宮は家光公が「三河の国は徳川家の本国にて
岡崎城は家康公誕生の地、瀧山寺は家康公が岡崎在城の折り信仰も厚かった
霊地にて、この地に東照宮を」と建立されたそうですが、日光東照宮、東照宮に
比べると比較的規模は小さめです。

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とは言っても、流石に東照宮。カラフルな紋様は美しいです。

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賽銭箱は、やはり葵の御紋入り。

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もうひとつ瀧山寺本堂の北側に建つ日吉山王社本殿は、1608年(慶長13年)に
家康公によって建立されたと伝わっているそうですが、本殿床下の背面板壁の
内側に「正保2年6月」の墨書きが残っている事や、斗組、木鼻などの様式が、
瀧山東照宮のものとほぼ一致することから、1645年(正保2年)の瀧山東照宮の
建立時に家光公によって修復された物と考えられるそうです。

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痛みが激しく、上の写真の様に風雪から守る為なのか本殿全体が大きな小屋の
中に収まっております。

以上、3回に渡る瀧山寺&瀧山東照宮の見学報告でした。

2009年11月22日

●瀧山寺と、瀧山東照宮 その2

昨日に引き続き、瀧山寺と瀧山東照宮の見学報告です。

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三門から500mほど進んで行くと、道路の北側に境内の案内板が建ってました。
写真右の案内板の青いバッ点の所が現在地で、左の写真の左側に駐車場へ
昇る道路があります。

案内板に書かれていた駐車場に車を止めると、既に10台ほど駐車しています。
「さすがは瀧山寺&瀧山東照宮、平日でも参拝者がいっぱいいるのか」と思い
ましたが、約2時間弱見学して駐車場に戻る間に他の見学者には出会えません
でした。
と言うか、誰もいませんでした。

この車の持ち主は、ご近所さんの車なんでしょうかね?

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落ち葉や落ちてきた木の実がいっぱいの階段を、昇って行きます。

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石段を登ると、まず本堂の南面が見えました。
紅葉のピークには、ちょっと1週間ほど早いようでした。

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こちらは、北西方向から見た本堂。 ( 12-24mm広角ズームレンズ使用 )

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写真左は南東方向から、写真右は北東方向から見た本堂。ともに ( 10.5mm
フィッシュアイレンズ使用 )

現存する本堂は4度目の造営と推定され、様式的に禅宗様の影響を強く受けた
南北朝期の建築となっています。
1222年(貞応元年)に建立され、1254年(建長6年)に修復された建造物で、現在の
姿は明治43年頃に解体大修理されたもので、国指定重要文化財です。

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左は金堂内部、右は金堂の屋根の鬼瓦です。

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写真左は、徳川五代目将軍の徳川綱吉公が建てられた鐘堂。
境内には徳川家の葵の家紋が入った石燈籠や、各大名から寄進された石灯籠が
いっぱい並んでおります。

本堂の東側には瀧山東照宮の本殿、拝殿、幣殿などが、裏側には日吉山王社の
本殿が建っておりますが、こちらの報告は次回とさせていただきまして、本堂から
東へ階段を下っていくと、瀧山寺の宝物殿、本坊、観音堂などがあります。

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ここの宝物殿は普段は施錠されていて、入り口への階段横にあるブザーを押すと
本坊から管理者の方が来られて中へ入れてくれます。
見学料金は、500円です。
平日は管理者の方は1名しか居ないらしく、出かけられてる時も有るそうですから、
平日に行かれる時は事前に連絡された方が良いかと思います。

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いよいよ、運慶と湛慶の父子が作られた作品に出会えました。
左から帝釈天立像、真ん中は聖観音菩薩立像、右側が梵天立像の三尊像です。
もちろん撮影不可なので、写真はパンフレットから流用させていただきました。

「瀧山寺縁起」によれば、源頼朝公の追善の為にと寛伝上人が建立をされた
惣持禅院に納められたと書かれてるそうで、頼朝公の三回忌にあたる1201年
(正治3年)に完成。
聖観音菩薩立像は頼朝公の身長と同じ高さにて、像内に頼朝公の鬢(びん)の
毛と、歯を納入されたと言われていて、実際にX線撮影にて聖観音像の像内の
口のあたりに、人間の歯らしきものが固定されているのが確認されております。

この三尊像は後世に惣持禅院の消滅によって不明になっており、長らく確認が
されてなかった様ですが、修復時に聖母観音立像と梵天立像は白っぽい肌色に
塗り重ねられてしまったのが残念です。
三尊の中では、やはり一色に塗り重ねられていない帝釈天立像の金色の肌と、
極彩色の衣装が綺麗でした。

因みに聖母観音立像の蓮への右手の微妙な持ち具合ですが、販売されていた
絵はがきの写真ではしっかりと蓮の茎を持っておられ、持ち方が違っております。
これは修復時に間違って修正されてしまったのか。
次回、見に行った時にでも質問してこようと思います。

この他に展示されている物は、運慶作の鬼面、瀧山寺秘仏の十一面観音立像
(12世紀)、頼朝公愛用の馬具、慈恵大師座像(室町時代)、足利尊氏公が寄進
された菩薩面(12世紀)、木造狛犬一対(室町時代)、織田信長公が徳川家康公に
送られたお礼状、家康公の座像画(1705年)など、複製でなくて本物だらけ。
これら全てを、ひとりでじっくり見られて500円は格安ですよ。

いやぁ~、大満足の宝物殿でした。

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写真左は本坊への入り口、写真右は観音堂です。
見応えたっぷりの、瀧山寺の報告でした。

2009年11月21日

●瀧山寺と、瀧山東照宮 その1

先日、 運慶工房の作品 の時に少し書かさせて頂きました、愛知県内で運慶の
作品を奉られている岡崎市の瀧山寺と瀧山東照宮の見学報告です。

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鎌倉時代末期に描かれた「瀧山寺縁起」(但し、現存している物は17世紀に書き
写された物) によると、奈良時代 (8世紀後半) に役の行者 (えんのぎょうじゃ) の
小角 (おづぬ) が山中にて修行中に、渓流の滝壺から龍が守護していた金色に
輝く薬師如来を発見し、天武天皇の勅命にてこの地に御堂を建立して安置され
吉祥寺とし、太政官符により寺名を瀧山寺と改められたそうです。

その後、12世紀初期(保安年間)に比叡山の住僧であった仏泉上人永救(ぶっせん
しょうにんえいきゅう) が仏法興隆のため三河の国にくだって、荒廃してしまって
いた瀧山寺跡に霊場を建て再興され、仏泉上人をしたい弟子入りした源頼朝公の
従兄弟の寛伝(かんでん)上人が住職の時に、頼朝公によって大伽藍が建立される
など鎌倉幕府の庇護を受け、その後も南北朝時代に寛伝上人の従兄弟の子供の
足利尊氏公から、江戸時代には徳川家からの庇護を受け、1644年( 正保元年) に
徳川3代目将軍の家光公が境内に滝山東照宮を創建されました。

旧暦の正月7日に行われている鬼祭りは,鎌倉時代に起源を持ち,天下泰平、
五穀豊饒を祈って境内を火の海とする勇壮な祭りにて、愛知県の無形文化財に
指定されております。

事前に下調べをしてみると、三門だけは離れて建っているらしく、隆盛期には
僧坊が山々谷々に350ヶ所を超えていたと言う面影が感じられます。

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自宅を出発してナビ通りに進むと、まず大きな三門(仁王門)が見えました。

説明板を読むと、三間一戸楼門、屋根入母屋造りこけら葺、斗組は下層三手先、
上層尾垂木三手先の典型的な中世楼門で、縁起によると1267年 ( 文永4年) の
建立にて、愛知県三河地区で最古の三門にて国指定重要文化財です。

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中央の柱の間が通路になってますが、扉は無かった様でその両側に仁王像が
安置されておりました。
仁王像は阿形が総高294.3cm、吽形が総高287.0cmで、運慶の作と伝えらて
いるそうですが、「その形状や特徴からは異なる仏師と思われる」と、宝物殿の
説明書きに書かれておりました。

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建立にあたり飛騨権守(ひだごんのかみ)藤原光延氏が垂木を逆さに ( 写真の
青い矢印の垂木 )打ってしまったのを恥じて、ノミを口に銜えて仁王門の上より
飛び降りて自殺したそうで、後日、その場所に椿が生え、村人達が塚を建てた
と伝えられており、正面左手の塚がその墓だそうです。

また楼上正面の扁額は、1275年(文永12年)正三位藤原朝巨経朝公の書と、
言われております。

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四方に奉られている隅鬼(すみおに)の色彩は、カラフルです。

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三門の裏側を見ると、かなり痛んでおりました。

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南側から見た三門ですが、本当にポツンと三門だけが建っておりました。
瀧山寺の概要説明と、三門だけで既に長文になってしまいましたので、本堂や
肝心の運慶作品に関しましては、次回の報告とさせて頂きます。

( その2 へ、つづく )

2009年11月18日

●平日ならでは

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吉良町にある金蓮寺にやって来ました。

ここに建ってる阿弥陀堂が国宝なのですが、 最悪な事に本日は土木工事中でした。
平日の史跡巡りは空いてて良いのですが、今回の様に土日にやらないメンテナンス
工事に偶に遭遇いたします。

残念ですが、出直しです。

●写真の撮り直し

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本日の休日は晴天とあり、瀧山寺の写真の撮り直しにやってきました。
写真は山門と、運慶作と伝わる仁王さん達です。

時間もありますので、この後、吉良町にある国宝の阿弥陀堂を見て来ようと
思います。

2009年11月17日

●運慶工房の作品

今月の初め頃にNHKのハイビジョンchで、運慶作の仏像を特集された番組を
見ました。
運慶は自分に古い木造仏像に興味を沸かせた仏師です。

運慶は、鎌倉時代初期に奈良興福寺を拠点にして活動されていた奈良仏師の
康慶の子供にて、運慶の長男の湛慶が1173年(承安3年)産まれだと言う事が
判明している事から、運慶は12世紀半ば産まれと推測されております。

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国宝東大寺南大門、2008年6月撮影

運慶率いる運慶工房の代表作と言えば、1203年(建仁3年)に奈良市東大寺の
南大門に造立された金剛力士(仁王)像ですが、自分は小学校の修学旅行の
時に、初めてこの8mもの巨大な木造の阿形(あぎょう)像、吽形(うんぎょう)像を
見て、現存する木造の仏像や建物を好きに成りました。

因みに、金属製の仏像には何故か昔から興味が沸きません。

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左が門に向かって左に立ってる口を開いた阿形、右が右に立ってる口を結んだ
吽形ですが、一般的な仁王像とはここは左右が逆に立ってます。
勿論、どちらも国宝です。

今回の番組では、昭和から平成にかけて5年間に渡った解体修理にて裏付けが
確定した史実の、運慶が中心となって快慶、定覚、湛慶、その他の小仏師による
運慶工房がたった二ヶ月間で造立したものである事や、CGにて復元された制作
方法などが中心でしたが、他にも運慶作の全国の作品も紹介され、その中に何と
愛知県にある仏像が紹介されました。

そんな近くにあるとは「こりゃ見にかんとカンがね」と、先日の休日に見に行って
きました。
場所は、鬼祭りで有名な岡崎市にある瀧山寺です。
創建は600年頃と古く、重要文化財の現存する金堂と山門は13世紀前半頃に
建立したものらしく、いつかは見に行こうと思っていた建築物です。

もともと自分は、もっと年寄りになってダイビングが出来なくなったら、日本各地を
巡って歴史有る木造の寺社仏閣を撮影しようと思っており、ダイビング休憩中の
最近の休日はその前哨戦とばかりに走り回っております。

事前に調べてみると、宝物館にて運慶の作品が見られるらしく、名古屋を出る時は
天気もよかったのですが、1時間ちょっと車で走って到着した時には曇り空。
目的の作品は見られたものの、お決まりの撮影禁止。
金堂や山門は曇り空の暗い写真ですし、詳細はは次回晴れた日に撮り直す予定の
写真を使って、後日報告させていただきます。

2009年11月12日

●国宝 犬山城

松本城、犬山城、彦根城、姫路城の国宝4城の中では、いち番古く建造された
現存天守にて、説に寄れば現存天守12城の中でもいち番古いとも言われて
おり、2003年3月時点では日本で随一、成瀬家による個人所有の国宝の天守
でした。

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木曽川沿いの高さ約88メートルほどの小高い山に築かれた平山城にて、歴史は
古く、1469年(文明元年)に織田広近氏がこの地に砦を築いたのが始まりといわ
れており、以前には美濃国金山城の天守を移築したとも言われておりましたが、
1961年(昭和36年)の解体修理時の調査で移築した痕跡が発見されなかった為、
現在では移築説は否定されております。

1537年(天文6年)に織田信長公の叔父にあたる織田信康氏が、現存する天守の
2階までを造築し、その後、天文、もしくは慶長時代に天守が完成し、江戸時代の
1617年(元和3年)に尾張藩付家老の成瀬正成氏が城主となり、天守に唐破風
出窓を増築されて、現在の姿になったと考えられております。

その後明治維新まで、成瀬家歴代の当主が城主となっておりましたが 明治の
廃藩置県にて廃城となり、天守を除き、櫓、城門などほとんどが取り壊されて
しまいます。
1891年(明治24年)の濃尾地震において天守が半壊してしまい、修理する事を
条件に1895年(明治28年)に成瀬家に無償譲渡され、当時の犬山町民の義援金
も合わせられて修復し、2004年(平成16年)から財団法人「犬山城白帝文庫」の
管理となりました。

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犬山城の北側を大きな木曽川が流れておりますので、自然の要害となってたと
思われますが、織田信長公が本能寺の変にて討たれた直後に、豊臣秀吉公と
徳川家康公によって争われた「小牧・長久手の戦い」の直前には、信長公の
家臣で乳兄弟でもあった池田恒興氏が木曽川を渡って城内に侵入され、落城
させているそうです。

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写真左は駐車場に建っていた犬山城下町の案内板、右は立派な国宝犬山城の
石碑です。

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写真左の黒門跡を抜けて石段を昇って行くと、写真右の本丸鉄門が見えてきて、
入場券を見せてこちらから本丸へ入る事になります。
因みに入場料は、犬山城、犬山市文化史料館とからくり展示館の3館のセット
料金のみにて、大人1名 500円でした。

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本丸鉄門を抜けると、天守の全貌がご覧になれます。

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写真左は南西方向から見た天守、石垣手前に写っている小屋のところで靴を
スリッパに履き替えて入場しますが、昔のままの階段は角度が急勾配なので
滑らない様に注意が必要です。
写真右は付櫓(つけやぐら)で、南東方向から見た姿です。
この付櫓は天守の入り口から侵入してくる敵軍に対して、横から攻撃が出来る
様になって建っております。

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写真右下の階段が入り口からの階段で、右真ん中辺りの階段が1階へ上って
行く階段です。
写真の真ん中辺りに走っている太い梁は立派でした。
天井は全体に低いので頭を梁などにぶつけない様にと、どこの現存天守でも
いたるところで注意が必用です。

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城内の展示物は、成瀬家に伝わる物が大半で、「小牧・長久手の戦い」の時に
秀吉公の本陣だったわりには、戦いに関する説明品は少しだけでした。

でも色んな城で見慣れた展示品が無くても、現存する姿を見られて触れられる
だけで凄いと思います。
写真右は、ちょっと高い床に畳が敷き詰められている書院造の間です。
城主の部屋だそうで、江戸時代の改造と考えられているそうです。

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写真の左奥に見える小部屋が、付櫓の内部です。
この写真だと、階段の急勾配が解りやすいかと思います。

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4階の廻縁(まわりえん)から見た本丸全景です。
高所恐怖症の自分は風が強いときは内部の回廊を見るだけで、廻縁に出る
事はありませんので、この時も廻縁には出ませんでした。
なのでこの写真は、匡平が2006年3月に撮影したものを拝借しました。
写真の真ん中辺りの門が本丸鉄門で、その右隣は土産物屋さんです。

やはり、木造の現存天守は歴史が感じ取られて良いですね~。

2009年11月07日

●名古屋城 その2 (西北隅櫓など)

本日は先日の名古屋城見学報告の続きです。

まずは西北隅櫓ですが、解体修理の時に清洲城天守に使用されていた古材が
見つかっており、清洲城の天守か、もしくは小天守を移築した建物とも言われて
いる事から清洲櫓、もしくは戌亥櫓とも呼ばれております。

西北隅櫓は瓦葺き屋根の三重三階造りにて、外堀に面した北面と西面には敵の
進入時の防御対策として落狭間(石落し)がありますが、内部に面した東面と
南面には落狭間はなく、千鳥破風が施されています。

現在の名古屋城の建物としては、最古の建築物になります。

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北方向から見た北面と西面、1階の張り出した部分の下部に落狭間があります。

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外堀内部南東方向から見た、南面と東面です。

先日の報告でも書きました様に、内部は10月18日(日曜)から11月23日(月曜)の
期間だけ一般公開されており、写真撮影もOKでした。

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1階内部、右奥が入り口になり、壁の構造の説明や、発掘された地固め用として
地中に埋められていた古木などが展示されております。

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左の写真の窓と床の間に、細長く長方形で空いた部分が落狭間です。
戦国時代初期の頃は、落狭間(石落し)は名前の様に石や岩を落として進入して
くる敵を撃退する部分でしたが、名古屋城が築城された頃には石や岩の代わりに
この穴から鉄砲を撃つやり方が主流になっていたせいか、長方形の細い穴でした。

階段の角度は、現存する多くの城に比べて緩やかな傾斜角度でしたので、作り
直された物かもしれません。

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2階の内部です。
この写真はNikonのワイドレンズで撮影しており、換算して18mm程度の広角に
なりますが、写る画像範囲から明らかに先日報告済みの 丸岡城の天守よりも
広くて大きいです。

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3階の内部です。
3階の窓には、「入子水抜」と言う名の面白い工夫が観察できました。

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それは木製の窓枠に溜まった雨水を、銅製の小さな筒を使って外に出す物で、
写真赤丸部分に小さな穴が空いており、その内部から外部に向かって写真の
青丸部分に銅製の筒が突き出ており瓦屋根に落とす構造です。

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解りづらいので、それぞれアップにしました。
こういう工夫が、400年近くも木造建築を保っている工夫のひとつと思いました。

名古屋城の隅櫓は、平時には武器や具足類などの倉庫として使われていて、
有事の時には攻撃の陣地になる目的で建てられていたそうで、物見にも有利な
曲輪の隅に、もともと11基建てられていたそうですが、当時のまま現存するのは
西北隅櫓と東南隅櫓だけです。

もうひとつ残っている西南隅櫓は明治時代の濃尾地震の時に、石垣と一部分が
崩壊し、大正12年に当時の宮内庁によって修理復旧がされました。
その修復時に鬼瓦に天皇家の御紋である菊花紋が施され、当時は離宮だった
面影が残っております。

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南側から見た、西南隅櫓です。

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南側から見た、東南隅櫓です。
東南隅櫓も、西北隅櫓と同様に年に1~2度ほど一般公開されますので、次回の
公開時に見学してこようと思っております。

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写真左は、加藤清正公が運んできたと言われている「清正石」。
但し、実際は異なり単なる伝説らしいです。
写真右は、二の丸の南西あたりに建つ清正公の銅像ですが、清正公の銅像は
この他、名古屋城に隣接する名古屋能楽堂の南にも一体建っております。
どちらも「清正石」の近くに建っていない事でも、伝説と言う事が正しい様です。

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二の丸の東庭園の南に、織田信長公が幼少の頃から清洲城へ移るまで住んで
いた那古野城跡の石碑が建っておりました。
何故か名古屋城のパンフレット内の地図や、城内の案内板にも掲載されておらず、
捜すのに苦労しました。

2009年11月05日

●名古屋城 その1 ( 天守 )

最近はあまり聞かない言葉ですが、「尾張名古屋は城で持つ」と言う言葉が
あるぐらい、名古屋っ子のシンボルです。
金のシャチホコのお城って方が、全国的には知られてるかも知れません。

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お城自体の綺麗さや、その巨大さから日本3大名城のひとつでは有りますが、
名古屋城も先日報告済みの 大垣城 同様、第二次世界大戦中にアメリカ国の
空襲によって天守と本丸が焼失してしまってて、現在は復元天守とは言えど
エレベーター付きの鉄筋コンクリート製と、自分的にはもうひとつなお城でして、
自分が住んでる名古屋市内にありながら、今回は約20年振りぐらいに見学を
してきました。

ただ重要文化財になってる西北隅櫓 ( 隅櫓と言っても大きくて、説明してくれた
説明係のおじさんは掛川城の天守と同じ大きさと言ってましたが、自分的には
掛川城よりはでっかいと感じました。 ) 、東南隅櫓、西南隅櫓、表二之門、
東二之門、不明門に於いては、徳川家康公が九男の義直公の為に天下普請で
1610年から1617年にかけて築城して以来、西南隅櫓を除いて現存物であり、
歴史的価値は高いです。

今回は今なら西北隅櫓だけ内部も見学できる事を耳にしたので、久しぶりに
見学して来ました。
その西北隅櫓の見学報告は、後日、別途報告させていただきます。

また、現在の名古屋市の河村たかし市長は、現在復興建築中の木造の本丸に
つづき、天守もコンクリート製から木造に建て直す事を検討されており、来年度
予算に調査費を盛り込むらしく、楽しみです。
自分が生きてる間に、木造の復興名古屋城大天守を見られたら良いのですが

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名古屋城の城内へは西側の正門と、反対の東側にある東門から入れますが、
写真は正門の南側に建てられている恩賜元離宮名古屋城の石碑。

恩賜元離宮とは、明治維新以降に将軍や大名の沢山の土地家屋が天皇家に
献上されて宮内庁が管理をしていましたが、その後、慶祝時などに恩賜として
各自治体に無償で払い下げていった資産があり、名古屋城もその内のひとつで
以前は天皇家の離宮でした。

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こちらは正門、写真左の建物が入場券売り場です。

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写真左は正門を城内から見た姿、平日でも流石に有名な観光地の名古屋城、
団体の学生さんや外人さんも多かったです。
右は、奥行きが広い正門の中に展示されてた義直公の正室春姫の菊人形です。
ちょうど今、10月18日から11月23日の期間で、第62回名古屋城菊花大会が
催されておりました。

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正門から入ったら、やはり金シャチがありました。
全国でも珍しい耳のあるシャチですが、この他、大天守の中にも数匹います。

そして内堀沿いに表二之門の方へ歩いていくと、左奥に大天守が、手前には
西南隅櫓が見えます。
西南隅櫓は明治時代の濃尾大地震で石垣と共に崩壊してしまったそうですが、
当時の宮内省によって修理復旧されました。

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写真右奥が東南隅櫓で、その手前の白い壁あたりが表二之門です。
アホな自分は、表二之門を撮り忘れててきました。

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表二之門を入るとここにも菊人形が、こちらは義直公の菊人形です。
可哀想な事に、正室の春姫さんとは離れて展示されております。

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本丸跡地は平成29年度完成予定で木造の本丸復元工事中でして、左の写真の
小天守手前に写っている壁は、復元工事の観察ができる部屋の壁です。
大天守へは小天守の右側の階段から入りますが、小天守は機械室とトイレが
あるだけで、小天守内から大天守へと渡って入ります。

右の写真は、大店主と小天守の内部説明板です。
現在は、大天守の1、2、4、5階で名古屋城の色んな資料を公開中で、7階には
おみやげ屋さんが有る程の広い展望室があります。

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小天守内から大天守入り口を見た姿ですが、迫力たっぷりです。

展示されている資料で特に自分の目に止まったのは、焼失前の名古屋城の写真と
空襲前に別の場所に保管されていて焼失を免れた襖絵や天井板絵などです。

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焼失前の南東側から撮された大天守と小天守、手前の建物は本丸です。

こんなに立派な建物でしたのに、空襲で焼失とは勿体ない事です。
終戦後に名古屋城の空爆は誤爆だったとアメリカは抜かしてたそうですが、
湾岸戦争でも、イラク空爆でも、アメリカ軍広報は同じセリフを何度も言って
ましたので、昔からの定例会見文なんでしょうね。

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こちらは焼失前の、北東側から撮された大天守です。

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数点展示されている襖絵の中で、特に保存状態が素晴らしく、きれいだったのが
重要文化財の麝香猫図(じゃこうねこず)で、写真上が全体、下の写真は左辺りに
描かれた麝香猫です。
この襖絵は、本丸表書院の三之間西側襖に使用されていたそうです。

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内堀の中へは表二之門から入りましたので、出るときは反対側の北側に建つ
不明門から出ました。
写真左は内堀の中から、右は外から天守を見あげた写真です。
因みにもうひとつある門の東二之門は、残念ながら現在崩れた石垣の工事中で
通れませんでした。

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北西から見た大天守です。
熊本城を築城された加藤清正公が築かれた、空堀から反り上がる三日月石垣が
非常に美しく、各天守は鉄筋コンクリート製であっても石垣や、3つの各隅櫓、
各二之門は本物で、とても綺麗な、どえりゃあ~でっけいお城でした。

2009年11月01日

●秀吉清正博物館

先日の休日、名古屋市民でさえあまり存在を知っていない 秀吉清正博物館
見学してきました。

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この 秀吉清正博物館 とは名古屋市博物館の分館として位置づけられており、
名古屋市中村区で産まれた武将、豊臣秀吉公と加藤清正公に関する資料を多く
収集し展示されてる歴史博物館で、以前に豊清二公顕彰館の名前であったのを
1991年に改築し、 秀吉清正博物館 の館名にリニューアルオープンされました。

場所は中村公園の西に建っている中村文化プラザ内にて、中村図書館、中村
文化小劇場の3館が入っています。

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中村図書館入口の東側にある入口から2階に上がると、 秀吉清正博物館
入口があります。

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常設されてるのは写真左の秀吉公と、写真右の様に清正公の2武将に纏わる
品々が中心ですが、織田信長公が天下統一へ向かう頃から、大坂の陣にて
豊臣家が滅亡する頃までを、5つのテーマに分かれて展示されています。

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常設展示物でも随時展示が変わる物がありまして、今回は上の写真の様な
江戸から明治の頃に描かれた、小田原城攻めの時の秀吉公と徳川家康公の
姿、備前名護屋城から朝鮮出兵時の様子、秀吉公の没後300年を記念して
再整備された墓所や、その時に建てられた五輪塔等の様子の浮世絵などが
展示されており、自分自身は初めて見る絵にて感激しました。

これらの常設資料に関しては、入館時に申し出ればストロボ発光無しの条件で
撮影が出来ますが、今回の見学目的であった 「特別陳列 安土桃山時代の
世界地図」 で特別展示されている、各世界地図や、各地球儀の撮影は禁止
されておりました。

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なので、参考までにパンフレットの写真を載せて頂きました。

安土桃山時代、いわゆる戦国時代の頃にヨーロッパで描かれた世界地図が
沢さん展示されており、時代と共にヨーロッパ人から見た日本の姿が変化して
いく様子が詳しく解ります。

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特に、「テイセラ 日本図 1595年作」(岐阜市歴史博物館蔵)にて、ようやく
ひと目で日本と解る地図が誕生しておりますが、この時点で日本国内には
日本の地図を正確に印刷された物は無く、ヨーロッパ人の方が日本の姿を
正確に知っていたと言う事実は面白かったです。
因みに1700年頃までの各地図には、北海道の存在が有りません。

「特別陳列 安土桃山時代の世界地図」展の見学料金は、何と無料。
10月10日(土)から11月15日(日) までの期間限定の開催ですのでお早めに。
他にも当博物館の近くには、秀吉公や清正公の生誕地碑や、豊国神社、
妙行寺、常泉寺など多くの史跡がありますので、名古屋観光の観光先に
リストアップされると良いかも知れませんよ。

2009年10月31日

●大垣城

本日の見学報告は、関ヶ原の合戦にて西軍の本拠地になった大垣城です。

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本丸跡の大垣公園から見た大垣城の天守と乾櫓、写真の右辺り手前に
写っているのは、初代大垣藩主の戸田氏鉄の騎馬像です。

応仁年間(15世紀頃)に築城されたと思われ、当時当地域の代官職であった
大垣氏の名前から大垣城と呼ばれるそうです。
その後、1535年(天文4年) に宮川安定が城郭を築き、1560年(永禄3年) に
氏家ト全が城主となり、堀、土塁、総囲いなどを再整備され、豊臣秀吉の命に
より1588年(天正16年)に一柳直末によって天守が築かれたとされてます。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、当時城主の伊藤盛宗は西軍だった
ため、石田三成らが西軍の本拠地とするが、西軍の敗北により落城。
江戸時代、1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となってから明治までは
大垣藩主戸田家の居城となっておりました。

1873年(明治6年)の廃城令にて廃城になりましたが、天守など一部の建物は
壊されず、昭和11年に国宝に指定されましたが、残念な事に第二次世界大戦
末期の昭和20年7月に、アメリカ軍の空襲によって焼失してしまいます。

現在の天守は昭和34年に、鉄筋コンクリート造りによって復元建造されたもの
で、内部は資料館になっており、昭和60年4月、戸田氏入城350年を記念して
隅櫓や一部土塀なども復元されました。

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左の写真は天守入り口、右は入り口横に建てられてる説明板、江戸時代初期の
頃の大垣城の絵図や、大垣城の由来などが書かれております。

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左の写真は南側から見た、右は東側から見た天守。

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南東側から見た天守、ちょうど石垣の補修工事などが重なり、一部、左隅に
安全用の塀板が写ってしまいました。

天守内部の資料館には、火縄銃、刀、槍、具足等や、戸田家の資料などが多く
展示されておりました。
天守への入館料はお安く100円ですが、大垣公園の西にある大垣市郷土館との
共通券は400円でした。

2009年10月25日

●現存天守 福井の丸岡城

国宝 4城の、松本城、犬山城、彦根城、姫路城は名古屋から日帰りの行程で
全て行けますが、残りの現存天守 8城で無理せずに日帰りで行けるのは、この
丸岡城ぐらいです。

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独立式望楼型2重3階にて、1576年(天正4年) 織田信長の家臣にて、越前を
領していた柴田勝家の甥の勝豊により築城され、現存最古の天守と言われて
おりますが、建築史における観点からでは、慶長期(1596年以降)の特徴を多く
見る事ができるので、1596年以降の築造か、又は、改修による姿ではないか
と考えられております。

屋根の笏谷石製瓦は珍しく、豪雪地帯特有の物かも知れません。

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本来なら左の写真の様な構図で綺麗に撮りたかったのですが、平日とあって
丁度この日は植木の剪定中でした。
今回は1時間30分ぐらい見学してましたが、観光客は自分含めてたった4人と
平日は観光客が少なくて写真が撮りやすくて良いのですが、こんな剪定作業や
清掃作業に遭遇したりして、たまにハマります。
一番最初の写真は、高所作業車が少しだけ移動した時に撮しました。

右は、天守入り口正面からですが、このような高い階段を昇って入ります。

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こちらは一番最初の写真の反対から見た画像です。
丸岡城は、1871年(明治4年)に 廃藩置県により廃城となり、天守以外は全て
解体されましたが、天守だけは当時の丸岡町により買い戻されて解体を免れ、
城跡は公園となったそうです。

その後昭和9年に天守が国宝に指定されますが、昭和23年の福井地震の時に
倒壊し、昭和30年に倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復され、
現在は重要文化財に指定されております。

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左は駐車城に設置されていた、昔の丸岡城の概要図、因みに駐車城は無料、
天守への入場料金は、右の写真の左に写っている歴史民俗資料館の入場料
込みで300円と、色々な地方にあるお城の入場料金と比較して格安でした。

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左の写真に写っている鯱は、昭和15年~17年の修理の時に作られた石製の鯱
です。元々は木彫り銅版張りの鯱だったそうですが、当時は戦時中にて銅版の
入手が困難だった為、石製に改められたそうですが、その後昭和23年の福井
地震の時に棟より落下し、こちらに展示されております。
尚、現在の鯱は、昭和30年からの修理に時に、本来の木彫り銅版張りの鯱に
再度、改められております。

右の写真の井戸は、信長に攻め滅ぼされた一向一揆衆の残党が、築城後に
何度も城に攻めこんだが、その度にこの井戸から大蛇が現れ、霞をかけて城を
守った言う伝説の井戸だそうで、廻りに写っている石垣は、「野づら積み」という
古い石垣方式です。
一見すき間が多く雑に積んである様に見えますが、排水が良く雨などで崩れる
ことは無いそうです。

さて天守の内部は。

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入り口を入ると、直ぐ正面に2階に上がる階段があります。
戦後復興された鉄筋コンクリート製のお城の階段と異なり、現存天守や木造で
復興されたお城の階段は急な角度の階段がほとんどで、ここでは拳の付いた
ロープが垂れ下がっており、階段の手すりとロープを使って安全に昇り下りを
する事ができました。

尚、城内での写真は全て板壁や展示物を劣化させない様にストロボやライトを
当てずに撮しておりますので、申し訳ありませんが全体に暗くピンが甘い写真に
なってます。

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北東の角から撮した、1階全体の写真です。
木造3階建てとあって、柱がいっぱい建ってます。

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階段の廻りには明治以降の丸岡城の写真が飾られており、左は明治34年の
写真、右は昭和23年の福井地震時に崩壊した写真です。
他にも、現存天守12城の写真なども飾られておりました。

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左の写真の1階の階段を昇り、2階に上がると右の写真の様になってました。

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南西の角から撮した、2階全体の写真です。
2階は真ん中の大部屋を囲う様に、東西南北にそれぞれ飾り細工の付けられた
窓付きの小部屋が有ります。
右側に移っている階段が1階と2階を繋ぐ階段、写真の真ん中あたりに写ってる
のが、2階と3階を繋ぐ階段の裏側面です。

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左は東の窓から撮した写真、右は丸岡城の歴史の説明板です。

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2階から3階への階段も急角度なので、同じく手すりとロープ付き、そして3階に
上がると右の写真の様になってます。

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2階全体の写真と同じく南西の角から撮した、3階全体の写真です。
2階の窓と異なり、各窓には飾り細工は付けられておらず、天井は無く屋根裏が
むき出しになっておりました。

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左は東の窓から撮した写真、右は南の窓から撮した写真です。

この後、歴史民俗資料館も見学してきましたが、柴田勝豊が有名な武将では
無かったせいか、柴田勝家、勝豊等の甲や具足などの展示物は無く、おいて
ある資料も少なく、現存天守以外はこれと言った珍しい物は特にありません
でした。
入場料金がリーズナブルなのは、このせいなのかも知れませんね。

2009年10月23日

●長浜城と、名刀正宗

この7月までは水生生物ヲタクの当サイトでしたが、最近ではすっかり歴オヤジの
ブログになっております。
そんな本日は、名刀「石田切込正宗」の見学報告です。

石田三成が愛用していた正宗として有名な「石田切込正宗」ですが、現在は国の
重要文化財として東京国立博物館が所有されており、10月5日から11月1日迄の
期間限定にて長浜城歴史博物館にて展示公開されております。

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写真は、展示されている長浜城歴史博物館が入っている長浜城の天守。
夕方の撮影でしたので、太陽をお城の後ろに隠して撮りました。

長浜城は、 豊臣秀吉 (当時は羽柴秀吉) が浅井長政を攻めた戦いの功にて
織田信長から浅井氏の旧領を拝領して、その当時、今浜と呼ばれていた町を
信長の名から一文字拝借して長浜と改名し、小谷城で使われていた資材を
流用する等して建てた城でしたが、その後に廃城となり資料も残っておらず、
写真の天守は、1983年に犬山城や伏見城をモデルにして模擬復元されたもの
です。
なので歴史的価値は、ちょっと低いお城と言えます。

そもそも「石田切込正宗」とは、前田利家が没した夜に加藤清正、福島正則ら
武断派七将による三成襲撃事件が発生し、大坂屋敷にいた三成を佐竹義宣が
助けて宇喜多秀家の屋敷に避難させ、伏見の屋敷にたてこもりました。

以前は、その後伏見の徳川家康邸に逃げ込み難を逃れたと伝えられてましたが
当時、対立状態であった三成を家康が匿うとは考えにくく、歴史学者によっては
三成襲撃事件をけしかけたと言う説もあります。

結局、七将と三成の確執の責任を取る形で、三成は奉行職を辞め佐和山城での
蟄居となり、その道中の警護を家康の次男である結城秀康が務められ、それに
恩義を感じた三成が別れ際に、自身の佩刀である「五郎正宗」を「秀吉公が愛した
一口」との言葉を添えて秀康に贈られました。

秀康は大層喜ばれて、「五郎正宗」を「石田正宗」と名付けられ、生涯差料として
愛用したそうで、

「石田正宗」は日本で最も有名な刀匠の一人、五郎入道正宗の手により作られた
刀にて、棟(みね)に2ヶ所の切込あとが入っている事から 「石田切込正宗」 との
名前で呼ばれておりますが、この切込あとさえ無ければ、重要文化財では無くて
国宝だったと言われております。

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実際に現物を拝見すると凄く綺麗な刀剣にて、切り込みあともハッキリ確認する
ことが出来ましたが、残念なことに「館内展示物の撮影は禁止」とされてました
ので、撮影は止めておきました。

ただいつも思うことですが、ほとんどの史跡での館内撮影は禁止されている所が
多いのですが、ストロボやライトなどの強い光を当てさえしなければ展示物が傷む
とは思えず、ストロボやライトを当てない撮影は許可して欲しい物です。

2009年10月19日

●浜松城

今年の6月までの休日は、ほとんど海や川で潜ってましたが、このところ休日は
ほとんどお城巡りをしておりまして、この3週間で既に報告済みの彦根城を含め
11城制覇しました。

その中から本日は、先日報告済みの彦根城の築城を命じた徳川家康公がまだ
織田信長公と同盟を結んでいた頃、約17年間在城されてた浜松城 ( 濱松城 ) の
見学報告です。

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浜松城の築城に関しては諸説がありまして、1504年~1520年頃に今川貞相氏が
曳馬城との名で築城されたと言うのが、最も有力な説になってます。

その後、今川氏親氏の配下の飯尾乗連氏が城主となり、桶狭間の戦いにおいて
今川義元公が戦死すると今川一族の衰退が始めり、乗連氏から子息の連竜氏に
当主が受け継がれた後、今川氏親に反旗を翻すが今川氏の謀略により連竜氏は
誘殺されます。

その後、連竜氏の未亡人であるお田鶴の方や家臣によって、守られてましたが、
1568年に家康公によって攻略され、1570年に家康公は武田信玄公からの侵攻に
備えて、岡崎城を嫡男の信康公に譲られて入城し、速やかに浜松城を西南方向に
拡張し、当初の曳馬の名を地名ともに浜松と改められたそうです。

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1573年の三方ヶ原の戦いにて、武田信玄公の挑発の策略にはまった家康公は
浜松城から打って出ましたが、武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫しており、
その時に命からがら逃げ帰っております。
その時に撤退を決断した苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)を残しており、
後世、自身の戒めにしたと伝えられております。
他にも有名な姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い等もこの浜松城から
出陣されております。

その後も1582年まで拡張改修工事は続けられて、1586年に家康公は浜松城から
駿府城に本拠を移され、1590年からは豊臣秀吉公の家臣の堀尾吉晴氏、子息の
忠氏氏が合わせて11年間在城されたが、関ヶ原の戦いの功績で出雲国松江に
移封されるなど、その後の歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したこと
から、出世城とも言われております。

残念ながら明治初期の廃城令により破壊されましたが、その時点では天守は無く、
本丸にあった二重櫓が天守代用とされていた模様で、1958年に野面積みの石垣、
旧天守台の上に鉄筋コンクリート製の天守閣が復興再建されました。

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天守の直ぐ近くに有る銀明水と呼ばれる井戸。

浜松城には天守台に1本、天守曲輪の押門のそばに1本、本丸に1本、二の丸に
3本、作左曲輪に4本の合計10本の井戸があったと言われてますが、写真の井戸
以外にも、天守台の井戸は再建時に復興天守の地下に残されております。

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本丸跡地には家康公の銅像が建てられており、周りは広大な公園に整備が
されております。
その公園の広さや、現存している野面積みの石垣の広さから考えても、当時は
かなり大きな敷地のお城であったと思われますが、復興されているのは以外に
小さな物でした。

2009年10月17日

●戦国ふぁっしょん

本日は名古屋市東区の徳川美術館にて、10月10日~11月15日の期間で
催されている 秋期特別企画展の「戦国ふぁっしょん -武将の美学-」
見学報告です。

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徳川美術館がある徳川園の入り口です。ここは無料で入れます。

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こちらは徳川美術館の入り口、観覧料は1,200円です。

徳川美術館は徳川家康公の遺品を中心にして、尾張徳川家初代の義直公
( 家康公の九男 ) 以下代々の遺愛品や大名道具などを常設展示しており、
「源氏物語絵巻」などの国宝9件、重要文化財57件を保管している美術館にて、
江戸時代の大名生活を知るには全国一の美術館です。

今回の特別展では徳川美術館の所蔵品だけで無く、国内の美術館や博物館
などで保管されている歴史上貴重な品物を借用され、安土桃山時代から江戸
時代にかけての、家康公を始め名高い武将の兜、甲冑、具足、陣中用具等の
戦闘品や、陣羽織、小袖、袴、屏風絵などの日常品が展示されており、その
展示されたほとんどが複製品でなくて本物です。

戦国時代の武将の最大の仕事は合戦です。
その仕事はいつ今生の別れとなるかも知れない仕事が故、多くの武将が常に
戦闘用具を人と異なり個性が目立つ様に着飾っていた様で、正に現代で言う
ファッション。
今回の企画展ではその点に着眼され、数多くの戦国時代の武将達のおしゃれ
具合のあふれる服装(兜、甲冑、具足、陣羽織等)をメインとしておりました。

特に自分が見たかった内のひとつの、上杉謙信公の紺紅羅紗地袖替陣羽織
などは保存状態も良く、胴部の紺色と袖部の紅色の色彩の鮮やかさが鮮明に
残っており、やはり本物は写真では描写しきれない綺麗さに満ちておりました。

ただ自分が一番見たかった、重要文化財の狩野元秀氏が描かれた、有名な
織田信長公の肖像画 ( 教科書なんかによく出てくる信長公の座った絵 )が、
展示期間は10月31日~11月6日だけらしく、今回は見れませんでした。
保管されてる長興寺さんでは、一般公開されていないだけに、今回見たかった
のですが下調べ不足でした。
でもやはり見てみたいので、期間中にもう一度行ってこようかと思ってます。

あと疑問に感じたことは、陣羽織の英語表記がバトルスーツとなってまして、
そもそも陣羽織とは、武将が戦場で雨風や寒さをしのぐ為に、甲冑の上から
羽織って着用したものですから、甲冑がバトルスーツで、陣羽織はオーバー
コートかと思いました。

館内はやはり撮影禁止で、写真が撮れませんでしたので、展示物の写真は
「戦国ふぁっしょん -武将の美学-」のサイトを参照して下さい。
また展示物によっては、織田信長公の肖像画同様に展示期間が異なる物も
有りますので、見に行かれる方は見たい物の展示期間をチェックしてから
見に行かれた方がいいですよ。

2009年10月13日

●国宝 彦根城

本日は、9月下旬に訪れてきた彦根城の報告です。

明治初期の廃城令に伴う破却を免れたり、第二次世界大戦時のアメリカの
空襲による焼失を免れ天守が現存しているお城は、弘前城、松本城、丸岡城、
犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城、宇和島、
高知城の12城ですが、このうち松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城は
国宝となっております。

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匡平が撮してきた写真を整理していると、犬山城、松本城、姫路城の写真は
ありましたが彦根城は無く、ひょっとしたらカメラを忘れただけで行ってるかも
知れませんが、残る1城の写真を自分が代わりに撮ってきました。

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詳しいことは 彦根観光協会 のサイトを見て頂くとして、簡単に説明しておきますと、
彦根城は関ヶ原の戦いにて勝利を収めた徳川家康公が、敗れた石田三成公の
佐和山城を取り壊し、徳川四天王の井伊家に築城を命じ天下普請の事業にて
1603年に築城が開始され、1622年に完成しました。

建築に於いては、大津城から天守、佐和山城から佐和口多門櫓と太鼓櫓門、
長浜城からは天秤櫓、小谷城から西ノ丸三重櫓、他にも観音寺城からなどの
移築伝承が多くあり、これら建物や石材の移築転用は工期短縮となり当時の
コスト削減からも行われたもので、他にも天下普請で築城された名古屋城や
姫路城も同様の方法がとられているそうです。

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現在、特別に内部を公開中の佐和口多門櫓の屋内から外を見た風景です。
この景色が見られるのは今だけだそうですよ。

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こちらは全国的にも現存してるのは希な馬屋。
重要文化財として国の特別史跡に指定されてますが、写っている馬は説明を
するまでも無いですが、模型です。

幕末の頃の井伊大老が藩主となるまで過ごした城でもあり、現在、隣接されて
いる彦根城博物館では、"井伊直弼と開国150年祭" が開催されており、詳しく
勉強することができます。

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もっとも、ひこにゃん見たさで訪れる方の方が多いかも知れませんが。
時間帯によっては、なまひこにゃんが見られるそうですので、是非みたい方は
こちらで スケジュールを確認してからお出かけ下さい。

2009年05月13日

●春日山城跡

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仕事が早めに終わったので、せっかく新潟県上越市まで来たからにはと、
今年のNHKの大河ドラマ"天地人"で、ちょうど旬の上杉謙信公、景勝公が
居城された春日山城跡を、見学して来ました。

しかし戦国時代屈指の山城だけに、頂上の本丸や直江兼続公の屋敷跡などを
見学するには、ちょっと山道を登る必用が有り、ハイキング姿やジャージの
方がほとんどで、スーツ姿に革靴では、ちょっと皆さんより浮いてましたね。

でもちゃんと、すれ違う方々に「こんにちは」の挨拶だけはしてきましたよ。

2009年04月25日

●織田信長、徳川家康ガイドブック

4月23日より愛知県では、織田信長ガイドブックと、徳川家康ガイドブックを
各5,000部作成し、愛知県内の各県民プラザで無料で希望者に配布しており
ます。

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内容は、愛知県が産んだ名将の歩んだ足跡に沿った観光ルートを紹介する
ガイドブックですが、なかなか上手く作られております。
織田信長ガイドブックは、信長公の年齢毎の6つのコース、徳川家康ガイド
ブックは、家康公によって作られた江戸幕府のふるさとを尋ねる6つのコースと
それぞれの特徴を捉えた、愛知県内での観光ルートのガイドマップです。

当初は豊臣秀吉ガイドブックも作られる計画だったらしいですが、もともと
武家産まれで城などの華やかな名所が多い信長公や、家康公に対して、農家
出身の秀吉公には名所名跡も少なく、秀吉公は見送られたそうです。

愛知県外の方で、各愛知県民プラザに受け取りに行けない方には郵送でも
受け付けておりますので、興味有る方は下記のサイトで確認してみて下さい。

織田信長、徳川家康ガイドブック紹介ページ

参考までに、このサイトで当ガイドブックをダウンロードする事も可能なのですが、
印刷されたガイドブックはA5サイズですので、ダウンロードしたPDFファイルを
PC上で拡大して見られた方が、大きなサイズで見えますので、印刷物より見安い
とは思います。

2009年04月15日

●沓掛城址公園

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もうひとつの桶狭間古戦場跡の、桶狭間古戦場公園の見学報告をする前に、
季節的にソメイヨシノが満開だった頃に丁度訪れた、沓掛城址公園の報告を
させていただきます。

この沓掛城は、桶狭間の戦いにて織田信長に敗れた今川義元公が、敗れる
前夜に陣を取った城です。

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場所は愛知県豊明市沓掛町に位置し、東西288m、南北234mの広さで、右上の
写真の案内図によると本丸、二の丸、諏訪曲輪、侍屋敷などで構成され、総堀に
囲まれる形式です。
当時としては、比較的規模の大きな城だったらしいです。

因みに案内図の図にて、右側は西方向になりますので案内図の前にある、写真
上の階段が西側(駐車場)からの入り口になります。

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低めの階段を上がると、本丸跡が見渡せます。

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同じ場所から見た左側は空堀、右側は侍屋敷跡です。

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丁度、お昼の時間なので、お花見がてらお弁当を持って休憩に来られた方達も
チラホラ見かけました。

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右の画像は、諏訪曲輪の跡。

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桜は、丁度満開で綺麗にさいておりました。

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公園入り口反対側の、東側から見た本丸跡。

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北側より見た、本丸跡。

公園内にある説明書きを纏めると、沓掛城は正中2年(1325年) 近藤宗光を
初代とし、九代目景春の時に織田信長に謀反した鳴海城主山口左馬助に
落とされて今川勢に属した。
その後、桶狭間の戦いの時に信長は攻め落としたが、景春は戦死。
戦後に恩賞として簗田出羽守に与えられ、城は整備された。

出羽守が加賀に移った後は、織田信照、川口久助が城主を勤め、慶長5年
(1600年)関ヶ原の戦いにおいて川口久助は西軍に参陣し、敗戦後に捕らえ
られて伊達政宗にお預けとなり、廃城となった。

豊明市により、昭和56年(1981年)から同61年にかけて発掘調査が行われ、
城跡は「沓掛城址公園」として整備されました。
なお、蓬左文庫所蔵の「沓掛村古城絵図」を参照すると、遺構は当時とほぼ
変わってないそうです。

2009年04月09日

●史跡桶狭間古戦場跡

以前にも少し書きましたが、たまに仕事中の昼休憩を兼ね、名古屋市近郊の
史跡を訪れております。
今回は、そんな桜咲く良き日に訪れてきた桶狭間古戦場跡の報告です。

織田信長公が2,000名の兵力にて、今川義元公ひきいる25,000名の大群を
奇襲攻撃にて打ち破ったと言う通説で有名な桶狭間の戦いですが、何故か、
その戦場跡は2ケ所の古戦場跡として、現在公園になっております。

実際、その時の戦いはかなり広い範囲のあちこちで戦いが有った様でして、
遺物が愛知県豊明市の"史跡桶狭間古戦場跡"と、名古屋市緑区の"桶狭間
古戦場公園"のそれぞれから見つかった事で、2ヶ所の古戦場跡が出来た様
です。

今回はその内のひとつ、愛知県豊明市にある"史跡桶狭間古戦場跡"の見学
報告です。

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北方向より撮した画像です。
豊明市内を走る国道1号線から 50mほど南下したところに当公園は有ります。
駐車場は無く、全面積でも200坪ぐらいの大きさです。

全景を入れたい為、10.5mmのフィッシュアイで撮ってみました。

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右の説明板には、この地は1560年5月19日に織田軍が今川軍を破った地にて、
当時、田楽狭間とか館狭間と呼ばれており、1809年に桶狭間弔古碑が建立
されたと書かれておりました。

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この公園の真ん中当たりに当跡地を示す石碑と、すぐ隣に説明板があり
桶狭間の戦いで今川義元公の戦死場所を示す最も古い石碑らしく、1771年に
建てられたとあります。

この石碑には、西側を除く三方に文字が彫られており、石碑正面の東側には
"桶狭七石の表之一"、北側には"今川上総介義元戦死所" 、そして南側には
"明和八年卵十二月十八日造" と書かれてありました。
ようするに今川義元公が戦死した場所との事ですね。

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跡地は公園として整備されており、直ぐ北側に隣接する病院の患者さんや
近隣の方らしき人達が、お花見がてらのんびりと休憩されてました。

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南側に、今川義元公のお墓が有ります。
案内板を読むには、ここは元々塚であったが明治9年5月に当地近郊の有松に
住む、山口正義氏が主唱しこの墓を建てられたらしいです。

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南端にある石で出来た弔古碑には、文化6年5月(1809年)に津島の神官である
氷室豊永氏が建立されたと彫られていると、案内板に書かれてました。
尚、石碑の写真左の表面には"桶狭間の戦い"を回願する文と雀時を偲ぶ詩が、
写真右の裏面には建碑の趣旨が書かれているそうで、尾張藩の儒学者の作に
なるそうです。

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上記の石碑の隣には、こういった史跡にはお決まりの絵で描かれた大きな
地図がありました。

窪地で休憩中の今川義元公を、背後の山から一気に斜面を駆け下り織田軍が
奇襲攻撃をかけたと言う通説は、近代の歴史研究者の方達には間違いと考え
ている方が多く、詳しくは、後日、もうひとつの古戦場跡"桶狭間古戦場公園"の
見学報告の時にでも、書かさせていただくつもりですが、実際には山の上で
休憩中の今川軍が、織田軍の攻撃によって、二手に分かれて逃げたというのが
新説の一部です。

確かに見学した2ヶ所の古戦場跡の側にはともに急な崖などなく、その当時は、
"おけはざま山"と言う山が2ヶ所の間にあったらしく、今川軍が山頂から二手に
逃げて、力尽きたところが現在の2ヶ所の古戦場跡と言うのかなと思いました。

次回、もうひとつの古戦場跡報告につづく。

2009年02月04日

●岐阜城と、清洲城めぐり

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本日は、久々に海に行かない休日。

このところ個人的にマイブームの織田信長公の お城見学に、朝から岐阜城、
午後から清洲城へと行って参りました。

それぞれ昔に作られた物が現存するのでは無く、 復元された建物にて、中の
展示物もほとんど複製品ですが資料などで勉強にはなりますね。

2008年06月10日

●今年も唐招提寺へ

本日は久々にダイビング関連ではないお話しで、先日の休日に、一年ぶりに
奈良の唐招提寺さんを参拝してきました。

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去年拝観した時は、まだ工事中の保護用建物に包まれていた金堂でしたが、
今年は保護用建物がほとんど解体されて、修理されたばかりの輝きを放って
おりました。

屋根の鴟尾(しび)は、西側が創建当初のものですが、今回の修理で平成の
鴟尾に代えられ、新宝蔵にて保管されております。
修理されたばかりの金堂を近くで見たかったのですが、まだ廻りを工事用の
柵で封鎖されており、残念ながら近くには寄れませんでした。

今回の拝観の目的は年に一度、6月5日~7日の3日間のみ、御影堂にて
拝観できる鑑真大和上像を拝ませていただく事と、来年の秋に落慶法要が
行われる予定で、現在、平成大修理中の金堂の中に鎮座されておられる
国宝三尊の修理姿の見学です。

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左上が御影堂で、右上は、盧舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像の
国宝三尊を修理している修理工場。

昨年7年ぶりに揃って修理所で拝観が出来ましたが、今年も昨年に引き続き、
鑑真大和上像の一般公開期間を、5月31日~6月8日の9日間に延長されて、
同期間中だけ、同じく修理中の国宝三尊が拝観できます。

国宝三尊は、今月より金堂の中に再び戻されるので、修理中の姿が見られる
のは今回が最後、しかも修理工場での展示中はすぐ側まで近寄って見る事が
できます。

木造巨大仏像フェチの自分としては、去年からの修復具合をどうしても近くで
見ておきたかったのですが、実際には去年と全く同じ展示方法で、修理された
変化も、全く判りませんでした。

どうやら金箔を張り直したり、漆を塗り直すと言った修繕では無く、現在の保存
状態を維持する修理らしく、去年と変わらないのは当たり前ですね。

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その他、のんびりと唐招提寺の国宝物や、重要文化財を見学し癒された後は
ちょっと北に足を伸ばして、東大寺の金剛力士立像を見に行く事に。

途中、写真の " いざさ " さんで、柿の葉寿司を美味しく頂きました。
ここでは2階の窓から、東大寺の南大門、大仏殿の屋根、鴟尾などの綺麗な
眺めを楽しみながら、料理を味わえます。

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さて、東大寺の金剛力士立像の阿像、吽像。
1180年(治承4年)に兵火で消失した東大寺の復興造営のひとつとして、1203年
(建仁3年)に、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率い、僅か
2か月で造立したものである事が、平成の解体修理の時に発見された像内納入
文書より新ためて裏付けられ、現在では運慶が制作の総指揮にあたっていたと、
考えられております。

建仁時代は、運慶、快慶の両巨匠が最もあぶらののった壮年時代と言われて
おりますが、僅か2ヶ月の短期間で8mにも及ぶ虚像作成は、日本木材彫刻で
珍しいもののひとつであります。

こういう側面からの日本史探訪は自分の好きな物のひとつでして、生物報告の
合間にでも、紹介させていただく事にいたします。

2007年06月08日

●唐招提寺

小学生の頃から、自分は古いお寺や日本のお城に興味がありました。
特に理由はこれって事は無いのですが、木造の大きな建物や、木造の仏像に
興味が有り、コンクリートで複製されたお寺やお城の建築物や、金物鋳造の
仏像にはほとんど興味はわきません。

やはり古くて木造で大きい、これが自分の気に入るキーワード。

学生の頃は、ちょこちょこ見学に出かけては居たのですが、働きだしてからは
一度だけ出かけたくらいで、ここ10年は忘れておりました。
しかし、先日、ネットで見たNEWSがきっかけになり、どうしても見に行きたく
なりました。

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写真は某新聞社の記事から頂戴しました。ごめんなさい

平成21年秋の完成を目指して、7年ほど前から金堂を大修理中の唐招提寺の
盧舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像の国宝三尊が、7年ぶりに揃って
修理所で一般公開されるらしい。
修理中の姿は今しか見れませんし、公開時期は鑑真大和上像を年に一度だけ
拝観できる期間と同じらしいです。

ダイビングをやり始めてからカメラ好きになり、今ならそれなりの写真が撮れる
のでは無いか?
ひょっとしたら普段は撮影禁止だけど、修理中の姿ぐらいは撮せる事ができる
かも、などと急に凄く見に行きたくなり、出かけてまいりました。

丁度、名阪国道と東名阪自動車道路の集中工事と重なりましたが、ラジオの
道路情報では湾岸を通って四日市で合流するルートで行けば、何とか渋滞は
少なくて済むとの事で、その通り車を走らせ2時間30分で着きました。

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意外と、駐車場は空いてました。
例年ですと鑑真大和上像を拝観できるのは、6月5日~7日の3日間だけですが
今年は特別に、2日~10日の9日間も拝観できる期間が有りますので、皆さん
参拝される日が分散されたんでしょう。
しかも修学旅行生の姿も見れません。
右上の写真の南大門の勅額は複製です。
本物は奈良時代の作成にて、風雨で劣化しない様、講堂に飾られております。

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右上の写真が講堂。
左上の写真は例堂を南より見た姿ですが、左に映っている人口の建物が、
金堂大修理の為に、金堂をすっぽり包み込む様に建てられた工事用の建物。
木製の大重量の屋根などをつり上げる為、大型のクレーン設備などが内部に
作られていました。
修理期間中に金堂に安置されている国宝三尊が傷つく可能性が有るため、
それぞれ現在は仏像修理所に安置されております。

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そして、いよいよ鑑真大和上が安置されている御影堂です。
特別公開の為、別途料金が必用でした。

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いよいよ写真の天幕に隠れた部屋に、鑑真大和上像が安置されております。

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残念ながら、やはり内部は撮影禁止でしたので、御影堂参拝記念に頂だいした
絵はがきの写真です。

鑑真大和上像の前では、皆さんお参りした後、座って鑑真大和上像をしげしげと
眺めております。
写真に撮ることは出来ませんので、一年後に拝観できるまで目に焼き付けて
おくのでしょう。
本物は写真と比較すると、漆の色が鮮やかに思えました。

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御影堂を45分ほど参拝した後は、講堂に安置されている弥勒如来坐像、持国天、
増長天の各立像の他、本来は金堂に安置されている梵天、帝釈天等を拝観。

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その後、仏像修理所で、薬師如来立像、千手観音立像、盧舎那仏坐像の順序で
拝観できました。
三尊とも金堂内で安置されている時より、修理所の方がより近く、明るい照明下で
拝観出来ました。
千住観音様は千手を外した状態で、数本はガラスケース内に入れて展示されて
いて、手の内部の木の組み合わせや、千住の手のひらに描かれた目など、
金堂内ではとても見えない部分が観察できました。

残念なのは、撮影禁止だった事。
でも、ほとんどの国宝の撮影が禁止されているのは何故でしょう。
やはり仏様を撮すと言う事は、罰当たりの行為なんでしょうかねえ?
ストロボがんがん当てるなんて、失礼ですものね。

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ともあれ、見たかった物は全て見れたので、大満足。
9時30分に到着したのに、南大門を出たのは12時30分でした。

2007年06月07日

●修学旅行生?

昨日、日記に "詳しくは後ほど "と書いておきながら、昨夜は暑い中、奈良の
広~いお寺を歩き廻って疲れた上、帰り道には名阪国道の集中工事による
大渋滞にはまってしまい、疲れたせいか報告を忘れてしまいました。

目的だった唐招提寺の事は、別途、詳しく報告させて頂きますが、唐招提寺に
参拝した後は、せっかく奈良に来たついでにお寺観光と、すぐ南に立っている
薬師寺と、名阪国道のインターに近い法隆寺にも参拝してきましたが、どちらも
修学旅行生でいっぱいでした。

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写真は西側遠方より撮影した薬師寺です。

で、よく観察すると、どうも言葉が日本語でない修学旅行生もいっぱいおります。
言葉からは、どうやら台湾人らしき生徒さん達の集団です。
その国でも修学旅行と言うかどうか判りませんが、おそらく日本の修学旅行生が
7割、3割は外国人の修学旅行生と言った具合の比率です。

自分達が修学旅行で訪れていた時代では、外国の、しかもアジアの方で旅行して
きている生徒など、皆無でした。
こんなところまで、世の中は変化してきているんですね。

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薬師寺の南門から入ったメインの白鳳伽藍では、左上の写真の様にあちこちで
色んな学校の修学旅行生がいましたが、北にちょっと離れた期間限定公開中の
玄奘三蔵院伽藍では、右上の写真の様に、ほとんど一般の参拝客ばかりしか
居ません。

唐招提寺を参拝した時にも修学旅行生は居ませんでしたが、年に一度だけ、
鑑真大和上様が期間限定で公開されている中では、騒がしい生徒さん達の
観光申し込みはお断わりしてるんでしょうか?

お寺によって、ちょっと好対照な参拝客の報告でした。

2007年06月06日

●今日の目的

今日の目的はここ。

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じじくさいと思われるでしょうが、唐招提寺です。

詳しくは後ほど。