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2009年11月29日

●半田市の 赤煉瓦工場

先日の赤煉瓦つながりで、本日は赤煉瓦の建物では愛知県内で一番有名な
赤煉瓦工場の報告です。

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この赤煉瓦工場は、名古屋市から南へ車で約40分ほどの距離の半田市に、
1898年(明治31年)10月に丸三麦酒株式会社の醸造工場として建築された
建物にて、明治33年のパリ万国博覧会で金賞に輝いた「カブトビール」を醸造
しておりましたので、現在では「旧カブトビール工場」と言われております。

設計者は、横浜の赤煉瓦倉庫を設計された明治時代の建築界の巨匠のひとり、
妻木頼黄氏です。
現存する赤煉瓦建築物としては、東京駅、横浜赤煉瓦倉庫、北海道庁に次いで
全国4位の大きさであり、煉瓦建造物にしては珍しく5階建ての高層建築物にて、
建築時の棟札でも「煉化石造5階家」(総建坪、約582坪) と、なっております。

先日報告ずみの 大浜漁協の赤煉瓦倉庫 と同じイギリス積みの赤煉瓦造りでも
大きさは10倍ぐらいと大きな建物です。

その後、丸三麦酒株式会社は日本第一麦酒株式会社に吸収合併され、1908年
(明治41年)に加冨登(かぶと)麦酒株式会社に社名を変更し、大正期にも増築が
繰り返されてきましたが、1943年(昭和18年)に大平洋戦争の激化にて、ビールの
生産は停止されました。

戦争末期頃には、中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として使われていた事で、
アメリカ軍によって攻撃目標とされてしまい、小型戦闘機P51によって機銃掃射を
浴びた無数の弾痕跡が、現在でも北側壁面にはっきりと残っております。

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写真の左部分に写っている黒い穴が弾痕跡です。

戦後の1949年(昭和24年)からは、日本食品化工株式会社のコーンスターチ加工
工場となってましたが、1996年(平成8年)に老朽化が進み工場は閉鎖し、煉瓦造
4階建の「浸漬」、「醸造」部門、汽罐室や煙突などが解体されましたが、取り壊し
しなかった残りの建物を半田市が買い取り、平成16年に国の登録有形文化財に
指定されました。

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基本的には施錠された柵の中に建っており、建物の中へは入れませんが、年に
数回、半田市が中の見学会を設定しております。
建物には季節柄か、クリスマスのデコレーションアップがなされてました。

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クリスマスリースには、黄ない「ごんぎつね」も付いてます。
半田市は、小学生の教科書に使われてる「ごんぎつね」の作家の新美南吉氏の
出生地にて、新美南吉記念館もあります。

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こちらは先日報告ずみの 大浜漁協の赤煉瓦倉庫 とは違って、国の登録有形
文化財に指定されております。
外観だけなら年中いつでも見学が可能ですから、 大浜漁協の赤煉瓦倉庫 とは
有料道路の衣浦海底トンネルを使えば車で20分ぐらい離れてるだけですので、
セットで見学されるのも面白いと思いますよ。

2009年11月27日

●碧南市大浜漁協の赤煉瓦倉庫

先日のNEWSで、昭和初期に建てられた赤煉瓦倉庫のひとつが、来年1月に
壊される事を知ったので、慌てて撮影してきました。

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名古屋市近郊の碧南市の大浜漁港に建ってる通称赤煉瓦倉庫にて、写真の
真ん中辺りの赤い建物です。
正式には、大浜漁業協同組合所有の旧冷凍冷蔵庫と言います。

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上の写真が北東から撮したのに対して、北西から撮したのが左の写真。
写真右は、対岸に建っている大浜漁業協同組合製氷部の建物です。

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碧南市は名古屋から南へ約40Km、名古屋駅からは私鉄名古屋鉄道で約1時間、
車では45分ほど走ったところにある、2009年10月31日現在人口が73,393人の、
昭和23年に愛知県で10番目の市になりました。

この赤煉瓦倉庫は碧南市の大浜漁港に面して建っており、1927年(昭和2年)に
旧大浜製氷会社の貯氷庫として建築され、大浜漁協が1994年に東海冷蔵から
購入して冷蔵庫に改修し、2001年12月まで使用しておりました。

愛知県内では珍しい、長方形の煉瓦の長手長い面)を表にして積む段と、小口
(最小面)を表にして積む段を交互にして強度を高めた積み方の"イギリス積み"の
倉庫にて、間口8,9m、奥行き16,2m、高さ11,3mの大きさで、南北の間口面に
開き戸があるレンガ壁を露出させた仕上げになっております。

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煉瓦の"イギリス積み"ですが、写真右のアップの写真で判りやすいかと思います。

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写真左は南側、写真右は北側の各間口ですが、北側の間口のフタの一部には
発砲スチロールが使われており、いかにも漁協さんの雰囲気が出てました。

愛知県三河地方に大きな被害を出した1945年1月の三河地震や、1959年9月の
伊勢湾台風にも耐え抜いたレトロ感たっぷりの建物でして、大浜漁協さんは
保存も兼ね有効活用が無いか何度も検討されてきたそうですが、耐震調査の
結果、数千万円にも昇る高額な補強整備費用がかかることから、取り壊しが
決定されたそうです。

因みに取り壊した後の跡地は、漁業にふれあう広場として一般に開放される
そうで、煉瓦の一部は広場に残される予定だそうです。

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折角、碧南までやってきたので、ついでにと碧南海浜水族館の見学に来たところ、
なんと休館日でした。

勿論、事前に何も調べずにやってきた自分が悪いのですが、平日の見学は空いて
いても、先日報告の 福井の丸岡城 の時や、 金蓮寺 の時みたいに、偶にこういう
アクシデントに遭遇する事が難点です。

2009年11月26日

●メタボな ニンテンドーDS

有り難い事に、任天堂さんから自分の様な老眼ゲーマー親父に最適なDSが
発売されました。

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左がDS-i LL、右が今まで使ってたDS-iです。
この画面の大きさに惹かれて、またまた任天堂商法にまんまと引っかかって、
今回も購入してしまいました。

思い出せば、ゲームボーイ → ゲームボーイ・ライト → ゲームボーイ・カラ-
→ ゲームボーイ・アドバンス → ゲームボーイ・アドバンスSP → DS → DSライト
→ DS-i → そして今回のDS-i LLと、見事に任天堂マジックに陥いって購入して
しまっております。

さすがに途中、ゲームボーイ・ポケットだけは購入してませんが・・・

それはともかく、このDS-i LLですが、画面が大きくて素晴らしいです。
ケータイで言えば、さしずめご老人向けのらくらくホンとでも言いますか、
贅沢言えば、もっと早く出して欲しかったものです。

2009年11月24日

●瀧山寺と、瀧山東照宮 その3

本日は瀧山寺シリーズの最終回、瀧山東照宮です。
全体に曇り空の写真が多くなってしまい、申し訳ありません。

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東照宮とは徳川家康公を神様として奉られた神社にて、江戸時代初期の頃に、
幕府によって建立された物や、全国各地の徳川一門、松平一門など大名家や、
譜代大名家、外様大名家も建立されており、最大時には全国で500社を超えて
おりましたが、明治6年の神仏分離における廃社などによって現存しているのは
約130社とされております。

その中で瀧山東照宮は、日光東照宮、久能山東照宮などと同様に幕府によって
建立された東照宮のひとつであり、1645年(正保2年)に徳川幕府3代目将軍の
徳川家光公が瀧山寺境内に創建されました。
尚、前述の明治6年の神仏分離により、現在では瀧山寺と瀧山東照宮は別法人と
なっております。

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 西方向から見た姿の写真、右端に写っているのが水屋、続いて真ん中が
 拝殿・幣殿で、中門があり、その左が本殿です。

位置的には瀧山寺境内の本堂東側のいち段小高くした整地面に、全体を石柵で
囲まれて建立されており、境内から石鳥居を通って入る事になります。
石鳥居の北側に東向き水屋が建ち、その東北に南向きに拝殿と幣殿が一つの
建物で建っていて、拝殿・幣殿の北側の更にいち段小高い整地面に中門が建ち、
その北奥に本殿が建っており、全て国の重要文化財に指定されております。

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「瀧山寺縁起」によれば、瀧山東照宮は家光公が「三河の国は徳川家の本国にて
岡崎城は家康公誕生の地、瀧山寺は家康公が岡崎在城の折り信仰も厚かった
霊地にて、この地に東照宮を」と建立されたそうですが、日光東照宮、東照宮に
比べると比較的規模は小さめです。

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とは言っても、流石に東照宮。カラフルな紋様は美しいです。

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賽銭箱は、やはり葵の御紋入り。

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もうひとつ瀧山寺本堂の北側に建つ日吉山王社本殿は、1608年(慶長13年)に
家康公によって建立されたと伝わっているそうですが、本殿床下の背面板壁の
内側に「正保2年6月」の墨書きが残っている事や、斗組、木鼻などの様式が、
瀧山東照宮のものとほぼ一致することから、1645年(正保2年)の瀧山東照宮の
建立時に家光公によって修復された物と考えられるそうです。

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痛みが激しく、上の写真の様に風雪から守る為なのか本殿全体が大きな小屋の
中に収まっております。

以上、3回に渡る瀧山寺&瀧山東照宮の見学報告でした。

2009年11月22日

●瀧山寺と、瀧山東照宮 その2

昨日に引き続き、瀧山寺と瀧山東照宮の見学報告です。

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三門から500mほど進んで行くと、道路の北側に境内の案内板が建ってました。
写真右の案内板の青いバッ点の所が現在地で、左の写真の左側に駐車場へ
昇る道路があります。

案内板に書かれていた駐車場に車を止めると、既に10台ほど駐車しています。
「さすがは瀧山寺&瀧山東照宮、平日でも参拝者がいっぱいいるのか」と思い
ましたが、約2時間弱見学して駐車場に戻る間に他の見学者には出会えません
でした。
と言うか、誰もいませんでした。

この車の持ち主は、ご近所さんの車なんでしょうかね?

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落ち葉や落ちてきた木の実がいっぱいの階段を、昇って行きます。

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石段を登ると、まず本堂の南面が見えました。
紅葉のピークには、ちょっと1週間ほど早いようでした。

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こちらは、北西方向から見た本堂。 ( 12-24mm広角ズームレンズ使用 )

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写真左は南東方向から、写真右は北東方向から見た本堂。ともに ( 10.5mm
フィッシュアイレンズ使用 )

現存する本堂は4度目の造営と推定され、様式的に禅宗様の影響を強く受けた
南北朝期の建築となっています。
1222年(貞応元年)に建立され、1254年(建長6年)に修復された建造物で、現在の
姿は明治43年頃に解体大修理されたもので、国指定重要文化財です。

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左は金堂内部、右は金堂の屋根の鬼瓦です。

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写真左は、徳川五代目将軍の徳川綱吉公が建てられた鐘堂。
境内には徳川家の葵の家紋が入った石燈籠や、各大名から寄進された石灯籠が
いっぱい並んでおります。

本堂の東側には瀧山東照宮の本殿、拝殿、幣殿などが、裏側には日吉山王社の
本殿が建っておりますが、こちらの報告は次回とさせていただきまして、本堂から
東へ階段を下っていくと、瀧山寺の宝物殿、本坊、観音堂などがあります。

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ここの宝物殿は普段は施錠されていて、入り口への階段横にあるブザーを押すと
本坊から管理者の方が来られて中へ入れてくれます。
見学料金は、500円です。
平日は管理者の方は1名しか居ないらしく、出かけられてる時も有るそうですから、
平日に行かれる時は事前に連絡された方が良いかと思います。

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いよいよ、運慶と湛慶の父子が作られた作品に出会えました。
左から帝釈天立像、真ん中は聖観音菩薩立像、右側が梵天立像の三尊像です。
もちろん撮影不可なので、写真はパンフレットから流用させていただきました。

「瀧山寺縁起」によれば、源頼朝公の追善の為にと寛伝上人が建立をされた
惣持禅院に納められたと書かれてるそうで、頼朝公の三回忌にあたる1201年
(正治3年)に完成。
聖観音菩薩立像は頼朝公の身長と同じ高さにて、像内に頼朝公の鬢(びん)の
毛と、歯を納入されたと言われていて、実際にX線撮影にて聖観音像の像内の
口のあたりに、人間の歯らしきものが固定されているのが確認されております。

この三尊像は後世に惣持禅院の消滅によって不明になっており、長らく確認が
されてなかった様ですが、修復時に聖母観音立像と梵天立像は白っぽい肌色に
塗り重ねられてしまったのが残念です。
三尊の中では、やはり一色に塗り重ねられていない帝釈天立像の金色の肌と、
極彩色の衣装が綺麗でした。

因みに聖母観音立像の蓮への右手の微妙な持ち具合ですが、販売されていた
絵はがきの写真ではしっかりと蓮の茎を持っておられ、持ち方が違っております。
これは修復時に間違って修正されてしまったのか。
次回、見に行った時にでも質問してこようと思います。

この他に展示されている物は、運慶作の鬼面、瀧山寺秘仏の十一面観音立像
(12世紀)、頼朝公愛用の馬具、慈恵大師座像(室町時代)、足利尊氏公が寄進
された菩薩面(12世紀)、木造狛犬一対(室町時代)、織田信長公が徳川家康公に
送られたお礼状、家康公の座像画(1705年)など、複製でなくて本物だらけ。
これら全てを、ひとりでじっくり見られて500円は格安ですよ。

いやぁ~、大満足の宝物殿でした。

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写真左は本坊への入り口、写真右は観音堂です。
見応えたっぷりの、瀧山寺の報告でした。

2009年11月21日

●瀧山寺と、瀧山東照宮 その1

先日、 運慶工房の作品 の時に少し書かさせて頂きました、愛知県内で運慶の
作品を奉られている岡崎市の瀧山寺と瀧山東照宮の見学報告です。

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鎌倉時代末期に描かれた「瀧山寺縁起」(但し、現存している物は17世紀に書き
写された物) によると、奈良時代 (8世紀後半) に役の行者 (えんのぎょうじゃ) の
小角 (おづぬ) が山中にて修行中に、渓流の滝壺から龍が守護していた金色に
輝く薬師如来を発見し、天武天皇の勅命にてこの地に御堂を建立して安置され
吉祥寺とし、太政官符により寺名を瀧山寺と改められたそうです。

その後、12世紀初期(保安年間)に比叡山の住僧であった仏泉上人永救(ぶっせん
しょうにんえいきゅう) が仏法興隆のため三河の国にくだって、荒廃してしまって
いた瀧山寺跡に霊場を建て再興され、仏泉上人をしたい弟子入りした源頼朝公の
従兄弟の寛伝(かんでん)上人が住職の時に、頼朝公によって大伽藍が建立される
など鎌倉幕府の庇護を受け、その後も南北朝時代に寛伝上人の従兄弟の子供の
足利尊氏公から、江戸時代には徳川家からの庇護を受け、1644年( 正保元年) に
徳川3代目将軍の家光公が境内に滝山東照宮を創建されました。

旧暦の正月7日に行われている鬼祭りは,鎌倉時代に起源を持ち,天下泰平、
五穀豊饒を祈って境内を火の海とする勇壮な祭りにて、愛知県の無形文化財に
指定されております。

事前に下調べをしてみると、三門だけは離れて建っているらしく、隆盛期には
僧坊が山々谷々に350ヶ所を超えていたと言う面影が感じられます。

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自宅を出発してナビ通りに進むと、まず大きな三門(仁王門)が見えました。

説明板を読むと、三間一戸楼門、屋根入母屋造りこけら葺、斗組は下層三手先、
上層尾垂木三手先の典型的な中世楼門で、縁起によると1267年 ( 文永4年) の
建立にて、愛知県三河地区で最古の三門にて国指定重要文化財です。

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中央の柱の間が通路になってますが、扉は無かった様でその両側に仁王像が
安置されておりました。
仁王像は阿形が総高294.3cm、吽形が総高287.0cmで、運慶の作と伝えらて
いるそうですが、「その形状や特徴からは異なる仏師と思われる」と、宝物殿の
説明書きに書かれておりました。

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建立にあたり飛騨権守(ひだごんのかみ)藤原光延氏が垂木を逆さに ( 写真の
青い矢印の垂木 )打ってしまったのを恥じて、ノミを口に銜えて仁王門の上より
飛び降りて自殺したそうで、後日、その場所に椿が生え、村人達が塚を建てた
と伝えられており、正面左手の塚がその墓だそうです。

また楼上正面の扁額は、1275年(文永12年)正三位藤原朝巨経朝公の書と、
言われております。

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四方に奉られている隅鬼(すみおに)の色彩は、カラフルです。

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三門の裏側を見ると、かなり痛んでおりました。

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南側から見た三門ですが、本当にポツンと三門だけが建っておりました。
瀧山寺の概要説明と、三門だけで既に長文になってしまいましたので、本堂や
肝心の運慶作品に関しましては、次回の報告とさせて頂きます。

( その2 へ、つづく )

2009年11月19日

●そう言えば、リブリーザがありました。

久々に、魚の写真です。

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ベニハナダイ  学名 Pseudanthias sp
 スズキ目 / ハタ科 / ナガハナダイ属
撮影 2007年6月: PALAU 水深 -**m 大きさ100mmぐらい
生息域 南日本など
観察報告は こちら を、ご覧下さい。

ふと気がつけば、もう 4ヶ月以上もダイビングをしておりません。
6月までは、やっと念願のテクニカルダイバーに成れて、この夏はテクニカル
ダイビングに燃えてる予定でしたが、この夏の匡平の出来事で水中で生物の
写真を撮る気持ちが無くなってしまい、もともとカメラを持たないダイビングが
つまらないと思ってる自分としては、ヘタするとダイビング復活は無いかな~
ぐらい思っておりました。

ところが先日、ダイビング器材やスタッドレスタイヤ、長年使ってないカヤック
などを置いてある倉庫に、久々に片づけに行ったところ、今年の初めに買った
ものの、テッキーになってからしか講習が受けられないので、まだ使っては
なかった リブリーザ を見てしまいました。

そう言えば、予定ではこの秋から講習を受けるはずでした。
決して安いダイビング器材じゃ無いですし、折角買ったのに使わないともったい
ないなぁ~と思い、ちょっと潜ってみたい気持ちが出てきました。

いきなりデジイチ持ってダイビング復活には抵抗が有りますし、そうかと言って
何も撮影しないのに潜る気にはなれませんでしたが、リブリーザの講習から
なら復活出来るかも知れません。

匡平の百か日が過ぎた事ですし、久しぶりに師匠に相談してみると、フムフム
なるほど。
とりあえず、リブリーザは静観する事にいたします。

2009年11月18日

●平日ならでは

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吉良町にある金蓮寺にやって来ました。

ここに建ってる阿弥陀堂が国宝なのですが、 最悪な事に本日は土木工事中でした。
平日の史跡巡りは空いてて良いのですが、今回の様に土日にやらないメンテナンス
工事に偶に遭遇いたします。

残念ですが、出直しです。

●写真の撮り直し

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本日の休日は晴天とあり、瀧山寺の写真の撮り直しにやってきました。
写真は山門と、運慶作と伝わる仁王さん達です。

時間もありますので、この後、吉良町にある国宝の阿弥陀堂を見て来ようと
思います。

2009年11月17日

●運慶工房の作品

今月の初め頃にNHKのハイビジョンchで、運慶作の仏像を特集された番組を
見ました。
運慶は自分に古い木造仏像に興味を沸かせた仏師です。

運慶は、鎌倉時代初期に奈良興福寺を拠点にして活動されていた奈良仏師の
康慶の子供にて、運慶の長男の湛慶が1173年(承安3年)産まれだと言う事が
判明している事から、運慶は12世紀半ば産まれと推測されております。

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国宝東大寺南大門、2008年6月撮影

運慶率いる運慶工房の代表作と言えば、1203年(建仁3年)に奈良市東大寺の
南大門に造立された金剛力士(仁王)像ですが、自分は小学校の修学旅行の
時に、初めてこの8mもの巨大な木造の阿形(あぎょう)像、吽形(うんぎょう)像を
見て、現存する木造の仏像や建物を好きに成りました。

因みに、金属製の仏像には何故か昔から興味が沸きません。

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左が門に向かって左に立ってる口を開いた阿形、右が右に立ってる口を結んだ
吽形ですが、一般的な仁王像とはここは左右が逆に立ってます。
勿論、どちらも国宝です。

今回の番組では、昭和から平成にかけて5年間に渡った解体修理にて裏付けが
確定した史実の、運慶が中心となって快慶、定覚、湛慶、その他の小仏師による
運慶工房がたった二ヶ月間で造立したものである事や、CGにて復元された制作
方法などが中心でしたが、他にも運慶作の全国の作品も紹介され、その中に何と
愛知県にある仏像が紹介されました。

そんな近くにあるとは「こりゃ見にかんとカンがね」と、先日の休日に見に行って
きました。
場所は、鬼祭りで有名な岡崎市にある瀧山寺です。
創建は600年頃と古く、重要文化財の現存する金堂と山門は13世紀前半頃に
建立したものらしく、いつかは見に行こうと思っていた建築物です。

もともと自分は、もっと年寄りになってダイビングが出来なくなったら、日本各地を
巡って歴史有る木造の寺社仏閣を撮影しようと思っており、ダイビング休憩中の
最近の休日はその前哨戦とばかりに走り回っております。

事前に調べてみると、宝物館にて運慶の作品が見られるらしく、名古屋を出る時は
天気もよかったのですが、1時間ちょっと車で走って到着した時には曇り空。
目的の作品は見られたものの、お決まりの撮影禁止。
金堂や山門は曇り空の暗い写真ですし、詳細はは次回晴れた日に撮り直す予定の
写真を使って、後日報告させていただきます。

2009年11月16日

●昨日は、匡平の百か日。

昨日は、匡平の百か日でした。
久々に我が家へお坊さんにお越し頂き、お経を唱えていただきました。

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匡平が、彼のPCの壁紙に昨年ぐらいまで使っていた写真です。
プレミアリーグ・リブァプールFCの、ホーム・スタジアムのアンフィールドです。

49日法要以降は、毎日、自分のヘタな読教を聞かされて、さぞかし匡平は
文句を言ってたと思いますが、昨日は素晴らしいお経が聞けて嬉しかったと
思います。

百か日は、悲しんで泣き明かしていた毎日に区切りを付ける日と言われて
おり、この日をもって喪に服していた期間を終えると言われております。
我が家のお坊さんは、いつも読教された後にその日に読まれた経文の意味を
説明して下さいますが、昨日の読教後にも、その旨の説明をしてください
ました。

確かにそうなのでしょうが、まだまだ少しも悲しみは薄れておりません。
100日ぐらいでは、匡平と一緒に暮らしてきた25年間とは比べようの無い
日月ですので、当たり前かと思います。
父親の自分でさえそうですから、言葉には出しませんが家族3人だけで居る
時の女房の姿を見ていると、母親の女房の悲しみは相当な物と思います。
長男も含めてですが、乗り越えるにはまだまだ時間がかかりそうです。

2009年11月14日

●LA ROUX / ラ・ルー

先日に日頃の燃費は 22.0~24.0Km/h程度と報告した我が社用車ですが、
昨日仕事で名古屋市郊外の町で給油して、しばらく渋滞に会わない走行を
続けておりましたら、平均燃費は 25.0~28.0Km/hぐらいを記録してました。
やはり信号の有る無しで、大きく左右するみたいです。

話し変わって、本日は久々に音楽のお話しです。
以前、今年5月に報告しました Lady GAGA は、今や本国アメリカの各ヒット
チャートでデビュー曲から4曲連続1位と言う 大ヒットメーカーになってますが、
もう一人今年デビューしたアーティストの中で、自分が好きなアルバムです。

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デビューアルバムは、ユニット名そのままで「LA ROUX / ラ・ルー」。

ヴォーカルとシンセ担当のエリー・ジャクソンと、プロデューサーのベン・ラング
メイドのエレクトロ・ポップ・ユニット。
80年代に流行ってた日本で言うテクノポップに近いものです。

よくパフュームをテクノポップと表現される方が多いですが、パフュームの音楽は
テクノだけでなく、ハウスや、エレクトロ、チップチューン等が混ざってますので
言い例えれば、ジャンル名としては無い言葉ですが「エフェクト・サウンド」とでも
言えるかと思います。
なのでパフュームよりも、80年代のY.M.Oの初期の頃のサウンドに近い音楽と
思っていただければ判りやすいかも知れません。

ラ・ルーとはフランス語で赤毛を意味するそうで、ロンドンのブリックストン出身の
若干20才のエリー・ジャクソンの髪が、赤褐色のショート・ボブなことから名付け
られたみたいです。

シングルカットされた曲のPVも結構凝ってますので、エレクトロが好きな方には、
聞くだけでなく見るのもお勧めですよ。

2009年11月12日

●国宝 犬山城

松本城、犬山城、彦根城、姫路城の国宝4城の中では、いち番古く建造された
現存天守にて、説に寄れば現存天守12城の中でもいち番古いとも言われて
おり、2003年3月時点では日本で随一、成瀬家による個人所有の国宝の天守
でした。

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木曽川沿いの高さ約88メートルほどの小高い山に築かれた平山城にて、歴史は
古く、1469年(文明元年)に織田広近氏がこの地に砦を築いたのが始まりといわ
れており、以前には美濃国金山城の天守を移築したとも言われておりましたが、
1961年(昭和36年)の解体修理時の調査で移築した痕跡が発見されなかった為、
現在では移築説は否定されております。

1537年(天文6年)に織田信長公の叔父にあたる織田信康氏が、現存する天守の
2階までを造築し、その後、天文、もしくは慶長時代に天守が完成し、江戸時代の
1617年(元和3年)に尾張藩付家老の成瀬正成氏が城主となり、天守に唐破風
出窓を増築されて、現在の姿になったと考えられております。

その後明治維新まで、成瀬家歴代の当主が城主となっておりましたが 明治の
廃藩置県にて廃城となり、天守を除き、櫓、城門などほとんどが取り壊されて
しまいます。
1891年(明治24年)の濃尾地震において天守が半壊してしまい、修理する事を
条件に1895年(明治28年)に成瀬家に無償譲渡され、当時の犬山町民の義援金
も合わせられて修復し、2004年(平成16年)から財団法人「犬山城白帝文庫」の
管理となりました。

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犬山城の北側を大きな木曽川が流れておりますので、自然の要害となってたと
思われますが、織田信長公が本能寺の変にて討たれた直後に、豊臣秀吉公と
徳川家康公によって争われた「小牧・長久手の戦い」の直前には、信長公の
家臣で乳兄弟でもあった池田恒興氏が木曽川を渡って城内に侵入され、落城
させているそうです。

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写真左は駐車場に建っていた犬山城下町の案内板、右は立派な国宝犬山城の
石碑です。

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写真左の黒門跡を抜けて石段を昇って行くと、写真右の本丸鉄門が見えてきて、
入場券を見せてこちらから本丸へ入る事になります。
因みに入場料は、犬山城、犬山市文化史料館とからくり展示館の3館のセット
料金のみにて、大人1名 500円でした。

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本丸鉄門を抜けると、天守の全貌がご覧になれます。

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写真左は南西方向から見た天守、石垣手前に写っている小屋のところで靴を
スリッパに履き替えて入場しますが、昔のままの階段は角度が急勾配なので
滑らない様に注意が必要です。
写真右は付櫓(つけやぐら)で、南東方向から見た姿です。
この付櫓は天守の入り口から侵入してくる敵軍に対して、横から攻撃が出来る
様になって建っております。

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写真右下の階段が入り口からの階段で、右真ん中辺りの階段が1階へ上って
行く階段です。
写真の真ん中辺りに走っている太い梁は立派でした。
天井は全体に低いので頭を梁などにぶつけない様にと、どこの現存天守でも
いたるところで注意が必用です。

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城内の展示物は、成瀬家に伝わる物が大半で、「小牧・長久手の戦い」の時に
秀吉公の本陣だったわりには、戦いに関する説明品は少しだけでした。

でも色んな城で見慣れた展示品が無くても、現存する姿を見られて触れられる
だけで凄いと思います。
写真右は、ちょっと高い床に畳が敷き詰められている書院造の間です。
城主の部屋だそうで、江戸時代の改造と考えられているそうです。

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写真の左奥に見える小部屋が、付櫓の内部です。
この写真だと、階段の急勾配が解りやすいかと思います。

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4階の廻縁(まわりえん)から見た本丸全景です。
高所恐怖症の自分は風が強いときは内部の回廊を見るだけで、廻縁に出る
事はありませんので、この時も廻縁には出ませんでした。
なのでこの写真は、匡平が2006年3月に撮影したものを拝借しました。
写真の真ん中辺りの門が本丸鉄門で、その右隣は土産物屋さんです。

やはり、木造の現存天守は歴史が感じ取られて良いですね~。

2009年11月11日

●驚異の燃費

先日の休日、匡平が天国に行っちゃったところへ行ってきた帰り道の事です。

社用車を私用で使ったので、その分多めにガソリンを給油してしばらく走って
信号待ちした時に、車のメーターを見てびっくり!!

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何と燃費が 37.5Km/hです。
写真のメーター表示を説明しますと、満タンにしてから 7.9Kmの距離を平均
時速 48Km/hで走って、燃費が 37.5Km/hを表しております。
給油してしばらくは高燃費を表示することは偶にありますが、5Km以上の
距離を走って、こんな高燃費表示は初めてです。

確かにうたい文句は「38.0Km/hの燃費」の我が社用車ですが、実際に仕事で
名古屋市内や近郊などを、偶に高速道路を使ったり街中を走行している時の
燃費は 22.0~24.0Km/h程度で、いつも 700~800Km位を走ってから満タンに
給油してますが、平均時速が 40Km/hを超える事はまずありません。

いくら高速道路で高速走行してても、街中でのノロノロ運転が多いからだとは
思いますが、信号があまり無くて 50Km/h近い平均速度が保てる様な環境だと、
本当に38.0Km/h近い燃費で走れるんですね。

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こちらの写真は約1ヶ月前に 報告 しました、20年ほど前まで我が家も住んで
いた県営住宅の取り壊し工事の現在の写真です。

前回の 報告 の時とは反対方向の、天白川の土手の上から撮した画像ですが、
昔と違って、金属類、プラスチック類、木材類、最後にコンクリート類と、資材を
分類されて取り壊し工事を進めてられましたが、約1ヶ月でここまで破壊されて
おります。

今の所は、ネズミやゴキブリの大量進軍は見られておりませんし、想像していた
沢さんのホコリが舞ったりはしてませんが、日中の取り壊し工事の騒音はかなりの
うるささです。

2009年11月09日

●三度目の月命日

昨日は、匡平の三度目の月命日でした。
先月の月命日は台風のせいで行けなかったので、天気の良かった今回は
匡平が天国に行っちゃった所へ行ってきました。

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紅葉には、まだちょっと早い様です。

あの日はとても暑い日で、匡平は汗をかきながらお湯を沸かしてましたが、
三ヶ月後の昨日は既に季節は秋になってます。

昨日はとても暖かい晴れた天気でしたので、日中は半袖Tシャツだけでも
十分な陽気でしたが、その場所は南紀と言えど山の中の渓流なので水温は
冷たくて渓流の水に入らないと行けない為、今回はダイビングに使っていた
ドライスーツを着こんで行ってきました。

暖かくするに超したことはないと思って、真冬並みのインナーを着込んで
行ってきましたが正解でした、水温は13度。
西伊豆の大瀬崎での真冬の水温です。
この水温ですと、冬にはどこまで下がるんでしょうか、因みに ボウズハゼ
姿は見あたりませんでした。

「あの日、ここに連れてきちゃってごめんね」と謝りながら、蝋燭、線香、
花束に加えて、匡平の吸ってたタバコ、匡平がいつも持ってたミンティア、
それと匡平があの日の昼ご飯に食べてたサラダのり巻きと、自分と2人して
分け合って匡平が最後に食べたゆで卵の、たまごろうを手向けてきました。

何であの日、あそこに連れてったんだろう?
三ヶ月が過ぎても、未だに後悔している毎日です。

自分が死ぬ時まで後悔し続ける事も、匡平への供養のひとつと思ってます。

2009年11月07日

●名古屋城 その2 (西北隅櫓など)

本日は先日の名古屋城見学報告の続きです。

まずは西北隅櫓ですが、解体修理の時に清洲城天守に使用されていた古材が
見つかっており、清洲城の天守か、もしくは小天守を移築した建物とも言われて
いる事から清洲櫓、もしくは戌亥櫓とも呼ばれております。

西北隅櫓は瓦葺き屋根の三重三階造りにて、外堀に面した北面と西面には敵の
進入時の防御対策として落狭間(石落し)がありますが、内部に面した東面と
南面には落狭間はなく、千鳥破風が施されています。

現在の名古屋城の建物としては、最古の建築物になります。

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北方向から見た北面と西面、1階の張り出した部分の下部に落狭間があります。

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外堀内部南東方向から見た、南面と東面です。

先日の報告でも書きました様に、内部は10月18日(日曜)から11月23日(月曜)の
期間だけ一般公開されており、写真撮影もOKでした。

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1階内部、右奥が入り口になり、壁の構造の説明や、発掘された地固め用として
地中に埋められていた古木などが展示されております。

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左の写真の窓と床の間に、細長く長方形で空いた部分が落狭間です。
戦国時代初期の頃は、落狭間(石落し)は名前の様に石や岩を落として進入して
くる敵を撃退する部分でしたが、名古屋城が築城された頃には石や岩の代わりに
この穴から鉄砲を撃つやり方が主流になっていたせいか、長方形の細い穴でした。

階段の角度は、現存する多くの城に比べて緩やかな傾斜角度でしたので、作り
直された物かもしれません。

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2階の内部です。
この写真はNikonのワイドレンズで撮影しており、換算して18mm程度の広角に
なりますが、写る画像範囲から明らかに先日報告済みの 丸岡城の天守よりも
広くて大きいです。

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3階の内部です。
3階の窓には、「入子水抜」と言う名の面白い工夫が観察できました。

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それは木製の窓枠に溜まった雨水を、銅製の小さな筒を使って外に出す物で、
写真赤丸部分に小さな穴が空いており、その内部から外部に向かって写真の
青丸部分に銅製の筒が突き出ており瓦屋根に落とす構造です。

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解りづらいので、それぞれアップにしました。
こういう工夫が、400年近くも木造建築を保っている工夫のひとつと思いました。

名古屋城の隅櫓は、平時には武器や具足類などの倉庫として使われていて、
有事の時には攻撃の陣地になる目的で建てられていたそうで、物見にも有利な
曲輪の隅に、もともと11基建てられていたそうですが、当時のまま現存するのは
西北隅櫓と東南隅櫓だけです。

もうひとつ残っている西南隅櫓は明治時代の濃尾地震の時に、石垣と一部分が
崩壊し、大正12年に当時の宮内庁によって修理復旧がされました。
その修復時に鬼瓦に天皇家の御紋である菊花紋が施され、当時は離宮だった
面影が残っております。

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南側から見た、西南隅櫓です。

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南側から見た、東南隅櫓です。
東南隅櫓も、西北隅櫓と同様に年に1~2度ほど一般公開されますので、次回の
公開時に見学してこようと思っております。

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写真左は、加藤清正公が運んできたと言われている「清正石」。
但し、実際は異なり単なる伝説らしいです。
写真右は、二の丸の南西あたりに建つ清正公の銅像ですが、清正公の銅像は
この他、名古屋城に隣接する名古屋能楽堂の南にも一体建っております。
どちらも「清正石」の近くに建っていない事でも、伝説と言う事が正しい様です。

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二の丸の東庭園の南に、織田信長公が幼少の頃から清洲城へ移るまで住んで
いた那古野城跡の石碑が建っておりました。
何故か名古屋城のパンフレット内の地図や、城内の案内板にも掲載されておらず、
捜すのに苦労しました。

2009年11月05日

●名古屋城 その1 ( 天守 )

最近はあまり聞かない言葉ですが、「尾張名古屋は城で持つ」と言う言葉が
あるぐらい、名古屋っ子のシンボルです。
金のシャチホコのお城って方が、全国的には知られてるかも知れません。

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お城自体の綺麗さや、その巨大さから日本3大名城のひとつでは有りますが、
名古屋城も先日報告済みの 大垣城 同様、第二次世界大戦中にアメリカ国の
空襲によって天守と本丸が焼失してしまってて、現在は復元天守とは言えど
エレベーター付きの鉄筋コンクリート製と、自分的にはもうひとつなお城でして、
自分が住んでる名古屋市内にありながら、今回は約20年振りぐらいに見学を
してきました。

ただ重要文化財になってる西北隅櫓 ( 隅櫓と言っても大きくて、説明してくれた
説明係のおじさんは掛川城の天守と同じ大きさと言ってましたが、自分的には
掛川城よりはでっかいと感じました。 ) 、東南隅櫓、西南隅櫓、表二之門、
東二之門、不明門に於いては、徳川家康公が九男の義直公の為に天下普請で
1610年から1617年にかけて築城して以来、西南隅櫓を除いて現存物であり、
歴史的価値は高いです。

今回は今なら西北隅櫓だけ内部も見学できる事を耳にしたので、久しぶりに
見学して来ました。
その西北隅櫓の見学報告は、後日、別途報告させていただきます。

また、現在の名古屋市の河村たかし市長は、現在復興建築中の木造の本丸に
つづき、天守もコンクリート製から木造に建て直す事を検討されており、来年度
予算に調査費を盛り込むらしく、楽しみです。
自分が生きてる間に、木造の復興名古屋城大天守を見られたら良いのですが

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名古屋城の城内へは西側の正門と、反対の東側にある東門から入れますが、
写真は正門の南側に建てられている恩賜元離宮名古屋城の石碑。

恩賜元離宮とは、明治維新以降に将軍や大名の沢山の土地家屋が天皇家に
献上されて宮内庁が管理をしていましたが、その後、慶祝時などに恩賜として
各自治体に無償で払い下げていった資産があり、名古屋城もその内のひとつで
以前は天皇家の離宮でした。

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こちらは正門、写真左の建物が入場券売り場です。

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写真左は正門を城内から見た姿、平日でも流石に有名な観光地の名古屋城、
団体の学生さんや外人さんも多かったです。
右は、奥行きが広い正門の中に展示されてた義直公の正室春姫の菊人形です。
ちょうど今、10月18日から11月23日の期間で、第62回名古屋城菊花大会が
催されておりました。

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正門から入ったら、やはり金シャチがありました。
全国でも珍しい耳のあるシャチですが、この他、大天守の中にも数匹います。

そして内堀沿いに表二之門の方へ歩いていくと、左奥に大天守が、手前には
西南隅櫓が見えます。
西南隅櫓は明治時代の濃尾大地震で石垣と共に崩壊してしまったそうですが、
当時の宮内省によって修理復旧されました。

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写真右奥が東南隅櫓で、その手前の白い壁あたりが表二之門です。
アホな自分は、表二之門を撮り忘れててきました。

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表二之門を入るとここにも菊人形が、こちらは義直公の菊人形です。
可哀想な事に、正室の春姫さんとは離れて展示されております。

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本丸跡地は平成29年度完成予定で木造の本丸復元工事中でして、左の写真の
小天守手前に写っている壁は、復元工事の観察ができる部屋の壁です。
大天守へは小天守の右側の階段から入りますが、小天守は機械室とトイレが
あるだけで、小天守内から大天守へと渡って入ります。

右の写真は、大店主と小天守の内部説明板です。
現在は、大天守の1、2、4、5階で名古屋城の色んな資料を公開中で、7階には
おみやげ屋さんが有る程の広い展望室があります。

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小天守内から大天守入り口を見た姿ですが、迫力たっぷりです。

展示されている資料で特に自分の目に止まったのは、焼失前の名古屋城の写真と
空襲前に別の場所に保管されていて焼失を免れた襖絵や天井板絵などです。

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焼失前の南東側から撮された大天守と小天守、手前の建物は本丸です。

こんなに立派な建物でしたのに、空襲で焼失とは勿体ない事です。
終戦後に名古屋城の空爆は誤爆だったとアメリカは抜かしてたそうですが、
湾岸戦争でも、イラク空爆でも、アメリカ軍広報は同じセリフを何度も言って
ましたので、昔からの定例会見文なんでしょうね。

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こちらは焼失前の、北東側から撮された大天守です。

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数点展示されている襖絵の中で、特に保存状態が素晴らしく、きれいだったのが
重要文化財の麝香猫図(じゃこうねこず)で、写真上が全体、下の写真は左辺りに
描かれた麝香猫です。
この襖絵は、本丸表書院の三之間西側襖に使用されていたそうです。

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内堀の中へは表二之門から入りましたので、出るときは反対側の北側に建つ
不明門から出ました。
写真左は内堀の中から、右は外から天守を見あげた写真です。
因みにもうひとつある門の東二之門は、残念ながら現在崩れた石垣の工事中で
通れませんでした。

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北西から見た大天守です。
熊本城を築城された加藤清正公が築かれた、空堀から反り上がる三日月石垣が
非常に美しく、各天守は鉄筋コンクリート製であっても石垣や、3つの各隅櫓、
各二之門は本物で、とても綺麗な、どえりゃあ~でっけいお城でした。

2009年11月03日

●定期検診

昨日の午前中は、会社指定の1年に1回の定期検診を受けてきました。

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本文と写真は全く関係ありません。

検査内容は、お決まりの事前に2日間に渡って採集した排便を持参して潜血検査、
尿検査、身長測定、体重測定、血圧測定、肺機能測定、視力検査、聴力検査、
眼底カメラ検査、胸部のX線撮影、 バリウムを飲んで胃部X線撮影、 腹部の
超音波検査、 心電図の検査など。
そして最後に医師による問診と診察を受けて終了、ざっと2時間ぐらいの検査です。

この検査を30歳頃から毎年受けてますので、これでバリウム飲むのも20杯目を
超えたことに成りますが、実は去年、この検査で胃に異常が見つかって産まれて
初めて胃カメラを飲みました。
結果は、ただの荒れた状態で異常なしでしたが、今年は何も無い事を祈ってます。

そして例年ですと、検査終了後は直ぐに帰れるのですが、例年会社に来て頂いて
インフルエンザの予防接種の注射を纏めて社員に打ってもらってますが、いつも
時間がかかってしまうので、今年は定期検診受診者だけは、検診終了後に注射を
打つ事になり、自分も打って貰ってきました。

当然ながら自分は妊婦さんじゃなく重症化しやすい持病も無いので、新型用でなく
季節性インフルエンザ用のワクチンと解っておりましたが、その旨の説明が事前に
医師の方からわざわざありまして、解ってますけどと聞いてみると、どうやら新型
インフルエンザ用のワクチンと勘違いをして打ちに来る方が多いそうで、その為、
自分にも説明されたらしいです。

あれだけ色んなマスメディアで優先順位の報道をされてても、勘違いしてる方って
多いみたいですね。
また、ワクチンの注射を打っておけば、インフルエンザにはかからないと思ってる
方も多いらしいですから、各マスメディアの方達は今の報道説明を変更された方が
良いかもしれませんね。

2009年11月01日

●秀吉清正博物館

先日の休日、名古屋市民でさえあまり存在を知っていない 秀吉清正博物館
見学してきました。

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この 秀吉清正博物館 とは名古屋市博物館の分館として位置づけられており、
名古屋市中村区で産まれた武将、豊臣秀吉公と加藤清正公に関する資料を多く
収集し展示されてる歴史博物館で、以前に豊清二公顕彰館の名前であったのを
1991年に改築し、 秀吉清正博物館 の館名にリニューアルオープンされました。

場所は中村公園の西に建っている中村文化プラザ内にて、中村図書館、中村
文化小劇場の3館が入っています。

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中村図書館入口の東側にある入口から2階に上がると、 秀吉清正博物館
入口があります。

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常設されてるのは写真左の秀吉公と、写真右の様に清正公の2武将に纏わる
品々が中心ですが、織田信長公が天下統一へ向かう頃から、大坂の陣にて
豊臣家が滅亡する頃までを、5つのテーマに分かれて展示されています。

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常設展示物でも随時展示が変わる物がありまして、今回は上の写真の様な
江戸から明治の頃に描かれた、小田原城攻めの時の秀吉公と徳川家康公の
姿、備前名護屋城から朝鮮出兵時の様子、秀吉公の没後300年を記念して
再整備された墓所や、その時に建てられた五輪塔等の様子の浮世絵などが
展示されており、自分自身は初めて見る絵にて感激しました。

これらの常設資料に関しては、入館時に申し出ればストロボ発光無しの条件で
撮影が出来ますが、今回の見学目的であった 「特別陳列 安土桃山時代の
世界地図」 で特別展示されている、各世界地図や、各地球儀の撮影は禁止
されておりました。

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なので、参考までにパンフレットの写真を載せて頂きました。

安土桃山時代、いわゆる戦国時代の頃にヨーロッパで描かれた世界地図が
沢さん展示されており、時代と共にヨーロッパ人から見た日本の姿が変化して
いく様子が詳しく解ります。

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特に、「テイセラ 日本図 1595年作」(岐阜市歴史博物館蔵)にて、ようやく
ひと目で日本と解る地図が誕生しておりますが、この時点で日本国内には
日本の地図を正確に印刷された物は無く、ヨーロッパ人の方が日本の姿を
正確に知っていたと言う事実は面白かったです。
因みに1700年頃までの各地図には、北海道の存在が有りません。

「特別陳列 安土桃山時代の世界地図」展の見学料金は、何と無料。
10月10日(土)から11月15日(日) までの期間限定の開催ですのでお早めに。
他にも当博物館の近くには、秀吉公や清正公の生誕地碑や、豊国神社、
妙行寺、常泉寺など多くの史跡がありますので、名古屋観光の観光先に
リストアップされると良いかも知れませんよ。