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2009年10月31日

●大垣城

本日の見学報告は、関ヶ原の合戦にて西軍の本拠地になった大垣城です。

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本丸跡の大垣公園から見た大垣城の天守と乾櫓、写真の右辺り手前に
写っているのは、初代大垣藩主の戸田氏鉄の騎馬像です。

応仁年間(15世紀頃)に築城されたと思われ、当時当地域の代官職であった
大垣氏の名前から大垣城と呼ばれるそうです。
その後、1535年(天文4年) に宮川安定が城郭を築き、1560年(永禄3年) に
氏家ト全が城主となり、堀、土塁、総囲いなどを再整備され、豊臣秀吉の命に
より1588年(天正16年)に一柳直末によって天守が築かれたとされてます。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、当時城主の伊藤盛宗は西軍だった
ため、石田三成らが西軍の本拠地とするが、西軍の敗北により落城。
江戸時代、1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となってから明治までは
大垣藩主戸田家の居城となっておりました。

1873年(明治6年)の廃城令にて廃城になりましたが、天守など一部の建物は
壊されず、昭和11年に国宝に指定されましたが、残念な事に第二次世界大戦
末期の昭和20年7月に、アメリカ軍の空襲によって焼失してしまいます。

現在の天守は昭和34年に、鉄筋コンクリート造りによって復元建造されたもの
で、内部は資料館になっており、昭和60年4月、戸田氏入城350年を記念して
隅櫓や一部土塀なども復元されました。

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左の写真は天守入り口、右は入り口横に建てられてる説明板、江戸時代初期の
頃の大垣城の絵図や、大垣城の由来などが書かれております。

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左の写真は南側から見た、右は東側から見た天守。

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南東側から見た天守、ちょうど石垣の補修工事などが重なり、一部、左隅に
安全用の塀板が写ってしまいました。

天守内部の資料館には、火縄銃、刀、槍、具足等や、戸田家の資料などが多く
展示されておりました。
天守への入館料はお安く100円ですが、大垣公園の西にある大垣市郷土館との
共通券は400円でした。

2009年10月29日

●忘れてた図鑑

お久しぶりに、海洋生物のお話です。
と言っても、久しぶりに潜ったわけでは無くて、図鑑のお話しですが。

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「以布利・黒潮の魚 ―ジンベエザメからマンボウまでー」

すっかり忘れておりましたが、前から捜していた図鑑にて存在を知った時には
既に販売は終了しており、やっとネットオークションで捜して購入したのですが、
届いた時はちょうど匡平が天国に行ってしまった頃で、配達不在通知をみて
配達所まで取りに行き受け取ったまでは良かったのですが、そのあとしばらく
バタバタしていて、クローゼットの奥にしまったままでした。

何故、クローゼットの奥かと申しますと、自分の使ってるクローゼットは手前には
一般のクローゼットと同様に服やズボンを掛けるようになってますが、いちばん
奥は本棚になっており、偶にしか読まないとか、コレクションしている本とかDVD
ボックスが並んでおり、その横に置いたまま忘れてたんです。

この図鑑は大阪海遊館が2001年に発行したもので、海遊館で展示されている
生物のふるさと、高知県土佐清水市の以布利にて10年間に渡って京都大学や
高知大学と共同研究された生態調査や、周辺海域の魚類調査をまとめたもの。

因みに、この以布利には海遊館の展示生物の収集、飼育と、周辺海域の調査
研究を目的として、1997年に「大阪海遊館 海洋生物研究所以布利センター」が
海遊館の付属施設として開設され、来年の10月にはジンベエザメや、マンタ用の
大型水槽が新設される予定です。

自分がオークションで捜してまでこの図鑑が欲しかった訳は、以前に当ブログで
報告してた キンセンイシモチ(ドットタイプ) と、 キンセンイシモチ(ラインタイプ)
キチンと掲載されているからでして、この春に AQUAS さんでログ付けしていて
まっちゃんにドットタイプとラインタイプの質問してたら、「これに載ってるよ~」って
教えていただき、「本当は2冊あったんやけど、ぢ〇ーちゃんが2冊あるならさぁ、
1冊ちょうだいよって、持ってっちゃった~」って、言ってられました。
さすが、オレ様です。

と、それはさておき、それからずう~っと捜しておりました。

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もうひとつこの図鑑を自分が気に入ったのは生態写真のほとんどが、柏島の
先駆者の平田先生の写真が使われており、写真のキャプションのほとんど
「大月町では観察出来るが、室手ではウンヌン、以布利ではウンヌン」等と
大月町の文字が常に出てきて、柏島ファンにはたまりません。

販売していた当時は6,000円で販売されていたのですが、自分が手にした時は
約1.3倍の価格で、最近のオークションで掲載されてる価格は 15,000円まで
高騰している人気図鑑です。

もちろん人気と言っても、さかなヲタクにとっては ですけどね。

2009年10月27日

●今ごろではありますが

以前にも報告済みのドラクエ9ですが、やはり7月の父の葬儀後しばらくそんな
気分になれなくて、7月下旬になってようやくやる気になったと思ったら、8月の
始めに今度は匡平が天国に行っちゃって、結局、8月中旬過ぎ頃からなんとか
やる気が出てきて、再開しました。

このところ休日は所用が無ければお城巡りをしてますので、休みの日に自宅に
居ない生活は、いつも海に行ってた以前の生活と何ら変わりませんが、仕事は
昨年ほとんど部下に引きついでた事もあり、これをきっかけにスタッフに任せて、
以前の様に毎日遅い帰宅ではなく、わりと早めに帰宅する様に変えました。

休みの度に海に行ってた頃は、整理しても仕切れない量の写真の整理とかを
暇な夜にやってましたが、まだ今は過去に撮り貯めてきた写真の整理も興味が
沸かず、TVやDVD見ながらドラクエってる毎日です。

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そしてやっと昨夜、「見えざる魔神の地図Lv87」、通称「まさゆきの地図」という
宝の地図の大ボスをやっつけました。
これで、すれ違い通信で友達にあげられる事ができます。

と言っても、今ごろなので皆さん既に持ってるかと思いますが・・・・・

ドラクエ9をやってない方には「何じゃそれは?」と思われると思いますが、この
ゲームには"すれ違い通信"と言う通信機能があり、同じドラクエ9を遊んでいる
人同士で、それぞれが持っている「宝の地図」を人にあげる事が出来ます。

「宝の地図」はいわゆるダンジョン地図なんですが、最初からドラクエ9に全て
入っているのでなくて、この様に他の人から貰わないと入手出来ない物もあり、
またそんな地図ほど、レアアイテムが拾えます。
そして全ての「宝の地図」の最深階には大ボスが居て、こいつを倒してクリアー
しないと他の人にあげる事ができません。

因みにクリアーすると、地図のマップが全て写真の様に表示される様になり、
クリアーするまでは地図はその時に歩いた部分しか表示されません。

レアアイテムの地図ほど、レベルが高くないとクリアー出来ない訳で、写真の
地図を自分はキャラ4人全員レベル99にしてから挑みましたが、やはりそこまで
レベルを上げてると、クリアーは簡単でしたよ。

と言う事で、今夜は「川崎ロッカーの地図」に挑んでいるところです。

2009年10月25日

●現存天守 福井の丸岡城

国宝 4城の、松本城、犬山城、彦根城、姫路城は名古屋から日帰りの行程で
全て行けますが、残りの現存天守 8城で無理せずに日帰りで行けるのは、この
丸岡城ぐらいです。

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独立式望楼型2重3階にて、1576年(天正4年) 織田信長の家臣にて、越前を
領していた柴田勝家の甥の勝豊により築城され、現存最古の天守と言われて
おりますが、建築史における観点からでは、慶長期(1596年以降)の特徴を多く
見る事ができるので、1596年以降の築造か、又は、改修による姿ではないか
と考えられております。

屋根の笏谷石製瓦は珍しく、豪雪地帯特有の物かも知れません。

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本来なら左の写真の様な構図で綺麗に撮りたかったのですが、平日とあって
丁度この日は植木の剪定中でした。
今回は1時間30分ぐらい見学してましたが、観光客は自分含めてたった4人と
平日は観光客が少なくて写真が撮りやすくて良いのですが、こんな剪定作業や
清掃作業に遭遇したりして、たまにハマります。
一番最初の写真は、高所作業車が少しだけ移動した時に撮しました。

右は、天守入り口正面からですが、このような高い階段を昇って入ります。

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こちらは一番最初の写真の反対から見た画像です。
丸岡城は、1871年(明治4年)に 廃藩置県により廃城となり、天守以外は全て
解体されましたが、天守だけは当時の丸岡町により買い戻されて解体を免れ、
城跡は公園となったそうです。

その後昭和9年に天守が国宝に指定されますが、昭和23年の福井地震の時に
倒壊し、昭和30年に倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復され、
現在は重要文化財に指定されております。

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左は駐車城に設置されていた、昔の丸岡城の概要図、因みに駐車城は無料、
天守への入場料金は、右の写真の左に写っている歴史民俗資料館の入場料
込みで300円と、色々な地方にあるお城の入場料金と比較して格安でした。

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左の写真に写っている鯱は、昭和15年~17年の修理の時に作られた石製の鯱
です。元々は木彫り銅版張りの鯱だったそうですが、当時は戦時中にて銅版の
入手が困難だった為、石製に改められたそうですが、その後昭和23年の福井
地震の時に棟より落下し、こちらに展示されております。
尚、現在の鯱は、昭和30年からの修理に時に、本来の木彫り銅版張りの鯱に
再度、改められております。

右の写真の井戸は、信長に攻め滅ぼされた一向一揆衆の残党が、築城後に
何度も城に攻めこんだが、その度にこの井戸から大蛇が現れ、霞をかけて城を
守った言う伝説の井戸だそうで、廻りに写っている石垣は、「野づら積み」という
古い石垣方式です。
一見すき間が多く雑に積んである様に見えますが、排水が良く雨などで崩れる
ことは無いそうです。

さて天守の内部は。

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入り口を入ると、直ぐ正面に2階に上がる階段があります。
戦後復興された鉄筋コンクリート製のお城の階段と異なり、現存天守や木造で
復興されたお城の階段は急な角度の階段がほとんどで、ここでは拳の付いた
ロープが垂れ下がっており、階段の手すりとロープを使って安全に昇り下りを
する事ができました。

尚、城内での写真は全て板壁や展示物を劣化させない様にストロボやライトを
当てずに撮しておりますので、申し訳ありませんが全体に暗くピンが甘い写真に
なってます。

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北東の角から撮した、1階全体の写真です。
木造3階建てとあって、柱がいっぱい建ってます。

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階段の廻りには明治以降の丸岡城の写真が飾られており、左は明治34年の
写真、右は昭和23年の福井地震時に崩壊した写真です。
他にも、現存天守12城の写真なども飾られておりました。

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左の写真の1階の階段を昇り、2階に上がると右の写真の様になってました。

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南西の角から撮した、2階全体の写真です。
2階は真ん中の大部屋を囲う様に、東西南北にそれぞれ飾り細工の付けられた
窓付きの小部屋が有ります。
右側に移っている階段が1階と2階を繋ぐ階段、写真の真ん中あたりに写ってる
のが、2階と3階を繋ぐ階段の裏側面です。

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左は東の窓から撮した写真、右は丸岡城の歴史の説明板です。

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2階から3階への階段も急角度なので、同じく手すりとロープ付き、そして3階に
上がると右の写真の様になってます。

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2階全体の写真と同じく南西の角から撮した、3階全体の写真です。
2階の窓と異なり、各窓には飾り細工は付けられておらず、天井は無く屋根裏が
むき出しになっておりました。

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左は東の窓から撮した写真、右は南の窓から撮した写真です。

この後、歴史民俗資料館も見学してきましたが、柴田勝豊が有名な武将では
無かったせいか、柴田勝家、勝豊等の甲や具足などの展示物は無く、おいて
ある資料も少なく、現存天守以外はこれと言った珍しい物は特にありません
でした。
入場料金がリーズナブルなのは、このせいなのかも知れませんね。

2009年10月23日

●長浜城と、名刀正宗

この7月までは水生生物ヲタクの当サイトでしたが、最近ではすっかり歴オヤジの
ブログになっております。
そんな本日は、名刀「石田切込正宗」の見学報告です。

石田三成が愛用していた正宗として有名な「石田切込正宗」ですが、現在は国の
重要文化財として東京国立博物館が所有されており、10月5日から11月1日迄の
期間限定にて長浜城歴史博物館にて展示公開されております。

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写真は、展示されている長浜城歴史博物館が入っている長浜城の天守。
夕方の撮影でしたので、太陽をお城の後ろに隠して撮りました。

長浜城は、 豊臣秀吉 (当時は羽柴秀吉) が浅井長政を攻めた戦いの功にて
織田信長から浅井氏の旧領を拝領して、その当時、今浜と呼ばれていた町を
信長の名から一文字拝借して長浜と改名し、小谷城で使われていた資材を
流用する等して建てた城でしたが、その後に廃城となり資料も残っておらず、
写真の天守は、1983年に犬山城や伏見城をモデルにして模擬復元されたもの
です。
なので歴史的価値は、ちょっと低いお城と言えます。

そもそも「石田切込正宗」とは、前田利家が没した夜に加藤清正、福島正則ら
武断派七将による三成襲撃事件が発生し、大坂屋敷にいた三成を佐竹義宣が
助けて宇喜多秀家の屋敷に避難させ、伏見の屋敷にたてこもりました。

以前は、その後伏見の徳川家康邸に逃げ込み難を逃れたと伝えられてましたが
当時、対立状態であった三成を家康が匿うとは考えにくく、歴史学者によっては
三成襲撃事件をけしかけたと言う説もあります。

結局、七将と三成の確執の責任を取る形で、三成は奉行職を辞め佐和山城での
蟄居となり、その道中の警護を家康の次男である結城秀康が務められ、それに
恩義を感じた三成が別れ際に、自身の佩刀である「五郎正宗」を「秀吉公が愛した
一口」との言葉を添えて秀康に贈られました。

秀康は大層喜ばれて、「五郎正宗」を「石田正宗」と名付けられ、生涯差料として
愛用したそうで、

「石田正宗」は日本で最も有名な刀匠の一人、五郎入道正宗の手により作られた
刀にて、棟(みね)に2ヶ所の切込あとが入っている事から 「石田切込正宗」 との
名前で呼ばれておりますが、この切込あとさえ無ければ、重要文化財では無くて
国宝だったと言われております。

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実際に現物を拝見すると凄く綺麗な刀剣にて、切り込みあともハッキリ確認する
ことが出来ましたが、残念なことに「館内展示物の撮影は禁止」とされてました
ので、撮影は止めておきました。

ただいつも思うことですが、ほとんどの史跡での館内撮影は禁止されている所が
多いのですが、ストロボやライトなどの強い光を当てさえしなければ展示物が傷む
とは思えず、ストロボやライトを当てない撮影は許可して欲しい物です。

2009年10月21日

●みどりが丘公園の抽選会

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決して、こんな椰子の木が生えてる公園では有りませんが。

昨日は自宅から車で約20分ほどの名古屋市緑区に有る、みどりが丘公園の
本年度下期募集の抽選会に行って来ました。

みどりが丘公園は名古屋市が1988年から設置開始された墓地公園で、現在
約20,000区画ほどありますが、予定では36,000区画まで増設される予定で、
現在も増設工事がすすんでおります。

敷地は、2001年5月に開設された「みどりが丘公園会館」を中心にして北部と
南部に分かれていて、北部にはいわゆる日本式の普通墓地と洋風の芝生の
墓地が、南部には普通墓地が配されており、同一面積の区画毎で小ブロック
形成がされていて、各ブロツクには駐車帯を併設した道路が面してますので、
各区画の近くまで車で行けます。

政令都市でありながら、移動手段は車と言う文化の名古屋市ならでは配慮が
されております。

「みどりが丘公園会館」は、墓地利用の受付や、車椅子の無料貸出しを行って
いる他、線香、ロウソクの常時販売や、飲料水の自動販売機などが設置されて
おります。
公園内には他にも約400台の駐車場や、各ブロック近くに墓参用の水汲場が
あって、備え付けの桶が無料で利用できます

公共機関で行く場合は、名古屋市営地下鉄の桜通線野並駅から市営バスに
なりますが、桜通線は現在徳重地区まで延伸工事をしており、2011年度中に
徳重駅が完成すると、最寄り駅は徳重駅になり公園まで約1.5kmと、今より
近く便利になります。

本年度は前年度までに埋まってない区画の上期募集の抽選会が4月16日に
あり、翌日から9月18日まで抽選会で埋まらなかった区画を先着順で受け付け
しておりました。
それとは別に本年度の新規造成区画の募集が、7月31日~8月3日の期間に
受け付けられ、複数の申し込みが有った区画は、後日、公開抽選の方法で
当選者が確定され、それで埋まらなかった区画と、上期募集で埋まらなかった
区画を対象にした下期募集の抽選会が昨日あり、我が家も参加しました。

上期募集と下期募集の抽選会は、新規造成区画の抽選会とは方法が異なり、
当日1時間ほどの受付時間があって、その時に抽選番号が付与されます。
そして抽選会があり、早く当たった方から希望する区画を選択してしていくと
言った方法です。

そして我が家の結果は。
くじ運が日頃から非凡な自分は、全受付164件中、79番目でした。
そんな真ん中よりちょい前の順番では、やはり希望していた5ヶ所中のうち、
何とか5番目が空いてる状態。
結局、その希望5番目で申し込んできました。

この後は来週に正式の申し込み手続きをして、11月中旬までに費用を支払えば、
早ければ12月以降に使用許可がおりますので、来週ぐらいからは墓石選びに
時間をかけようと思います。

2009年10月19日

●浜松城

今年の6月までの休日は、ほとんど海や川で潜ってましたが、このところ休日は
ほとんどお城巡りをしておりまして、この3週間で既に報告済みの彦根城を含め
11城制覇しました。

その中から本日は、先日報告済みの彦根城の築城を命じた徳川家康公がまだ
織田信長公と同盟を結んでいた頃、約17年間在城されてた浜松城 ( 濱松城 ) の
見学報告です。

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浜松城の築城に関しては諸説がありまして、1504年~1520年頃に今川貞相氏が
曳馬城との名で築城されたと言うのが、最も有力な説になってます。

その後、今川氏親氏の配下の飯尾乗連氏が城主となり、桶狭間の戦いにおいて
今川義元公が戦死すると今川一族の衰退が始めり、乗連氏から子息の連竜氏に
当主が受け継がれた後、今川氏親に反旗を翻すが今川氏の謀略により連竜氏は
誘殺されます。

その後、連竜氏の未亡人であるお田鶴の方や家臣によって、守られてましたが、
1568年に家康公によって攻略され、1570年に家康公は武田信玄公からの侵攻に
備えて、岡崎城を嫡男の信康公に譲られて入城し、速やかに浜松城を西南方向に
拡張し、当初の曳馬の名を地名ともに浜松と改められたそうです。

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1573年の三方ヶ原の戦いにて、武田信玄公の挑発の策略にはまった家康公は
浜松城から打って出ましたが、武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫しており、
その時に命からがら逃げ帰っております。
その時に撤退を決断した苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)を残しており、
後世、自身の戒めにしたと伝えられております。
他にも有名な姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い等もこの浜松城から
出陣されております。

その後も1582年まで拡張改修工事は続けられて、1586年に家康公は浜松城から
駿府城に本拠を移され、1590年からは豊臣秀吉公の家臣の堀尾吉晴氏、子息の
忠氏氏が合わせて11年間在城されたが、関ヶ原の戦いの功績で出雲国松江に
移封されるなど、その後の歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したこと
から、出世城とも言われております。

残念ながら明治初期の廃城令により破壊されましたが、その時点では天守は無く、
本丸にあった二重櫓が天守代用とされていた模様で、1958年に野面積みの石垣、
旧天守台の上に鉄筋コンクリート製の天守閣が復興再建されました。

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天守の直ぐ近くに有る銀明水と呼ばれる井戸。

浜松城には天守台に1本、天守曲輪の押門のそばに1本、本丸に1本、二の丸に
3本、作左曲輪に4本の合計10本の井戸があったと言われてますが、写真の井戸
以外にも、天守台の井戸は再建時に復興天守の地下に残されております。

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本丸跡地には家康公の銅像が建てられており、周りは広大な公園に整備が
されております。
その公園の広さや、現存している野面積みの石垣の広さから考えても、当時は
かなり大きな敷地のお城であったと思われますが、復興されているのは以外に
小さな物でした。

2009年10月18日

●残念です。

昨日、悲しいNEWSでした。

皆さんも報道でご存じの様に、当ブログでも過去に何度か紹介させて頂いた、
サディステック・ミカ・バンド等で活躍された音楽家の加藤和彦さんの訃報が
流れました

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左はデビューアルバムの「SADISTIC MIKA BAND」、
右は1973年に発表された「ハイ・ベイビー」、発売時のシングルレコード盤の
ジャケットです。

中学生の頃に洋楽に凝り出し、洋楽一辺倒だった自分に邦楽の良さを教えて
くれたのが、サディステック・ミカ・バンドでした。
デビューアルバムの「SADISTIC MIKA BAND」には、当時まだイギリスの
ヒットチャートで取り上げられ始めたばかりのサウンドのスカが入ってたりして、
世界でも先端を行くアルバムでした。

その後に発表されたアルバム「黒船」や、「ホット!メニュー」は、ビートルズや
ピンクフロイドを手がけたクリス・トーマス氏がプロデュースし、親交のあった
ロキシーミュージックの前座ながら、ロンドン公演も行いました。

自分はサディステック・ミカ・バンドを知ってから、それまでに加藤和彦さんが
作り出してきた音楽を知った訳ですが、自分の音楽感に大きな影響を与えて
くれた方でした。

ご冥福をお祈り申し上げます。

2009年10月17日

●戦国ふぁっしょん

本日は名古屋市東区の徳川美術館にて、10月10日~11月15日の期間で
催されている 秋期特別企画展の「戦国ふぁっしょん -武将の美学-」
見学報告です。

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徳川美術館がある徳川園の入り口です。ここは無料で入れます。

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こちらは徳川美術館の入り口、観覧料は1,200円です。

徳川美術館は徳川家康公の遺品を中心にして、尾張徳川家初代の義直公
( 家康公の九男 ) 以下代々の遺愛品や大名道具などを常設展示しており、
「源氏物語絵巻」などの国宝9件、重要文化財57件を保管している美術館にて、
江戸時代の大名生活を知るには全国一の美術館です。

今回の特別展では徳川美術館の所蔵品だけで無く、国内の美術館や博物館
などで保管されている歴史上貴重な品物を借用され、安土桃山時代から江戸
時代にかけての、家康公を始め名高い武将の兜、甲冑、具足、陣中用具等の
戦闘品や、陣羽織、小袖、袴、屏風絵などの日常品が展示されており、その
展示されたほとんどが複製品でなくて本物です。

戦国時代の武将の最大の仕事は合戦です。
その仕事はいつ今生の別れとなるかも知れない仕事が故、多くの武将が常に
戦闘用具を人と異なり個性が目立つ様に着飾っていた様で、正に現代で言う
ファッション。
今回の企画展ではその点に着眼され、数多くの戦国時代の武将達のおしゃれ
具合のあふれる服装(兜、甲冑、具足、陣羽織等)をメインとしておりました。

特に自分が見たかった内のひとつの、上杉謙信公の紺紅羅紗地袖替陣羽織
などは保存状態も良く、胴部の紺色と袖部の紅色の色彩の鮮やかさが鮮明に
残っており、やはり本物は写真では描写しきれない綺麗さに満ちておりました。

ただ自分が一番見たかった、重要文化財の狩野元秀氏が描かれた、有名な
織田信長公の肖像画 ( 教科書なんかによく出てくる信長公の座った絵 )が、
展示期間は10月31日~11月6日だけらしく、今回は見れませんでした。
保管されてる長興寺さんでは、一般公開されていないだけに、今回見たかった
のですが下調べ不足でした。
でもやはり見てみたいので、期間中にもう一度行ってこようかと思ってます。

あと疑問に感じたことは、陣羽織の英語表記がバトルスーツとなってまして、
そもそも陣羽織とは、武将が戦場で雨風や寒さをしのぐ為に、甲冑の上から
羽織って着用したものですから、甲冑がバトルスーツで、陣羽織はオーバー
コートかと思いました。

館内はやはり撮影禁止で、写真が撮れませんでしたので、展示物の写真は
「戦国ふぁっしょん -武将の美学-」のサイトを参照して下さい。
また展示物によっては、織田信長公の肖像画同様に展示期間が異なる物も
有りますので、見に行かれる方は見たい物の展示期間をチェックしてから
見に行かれた方がいいですよ。

2009年10月15日

●免許の書き換えに

先日、自動車の運転免許証の更新に行ってきました。

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名古屋市民なら、ほとんどの方が運転免許証の更新に訪れる天白区にある
愛知県警察運転免許試験場、通称"ひらばり"です。

5年前の前回の更新時はゴールド免許でしたので、優良ドライバーと言う事で
講習時間はほんの15分程度でしたが、今回は昨年初夏に柏島からの帰り道に
スピード違反をしてしまい 免停に なった上、更に 7月に父が亡くなった時に
またしても20Km/h超のスピード違反をしてしまい、今回の更新時はは2時間の
違反者講習でした。
講習時間が長い分、金額も1,000円高いんですね。

それと当たり前の事ですが、今回はゴールドでなくブルーの免許証。
ゴールドに戻るには5年間の無事故無違反ですから、次回もブルーの3年間です。

ちょっと意外だったのは、やっと今年から愛知県もICチップが封入された
運転免許証になったのですが、本籍地欄は白紙になっているのに、現住所は
バッチリ書かれております。

ICチップ導入は偽造目的だそうですが、このご時世、ついでなら現住所も
白紙にして個人情報保護に努めれば良いのに、変なものです。
写真、名前、現住所と免許証番号は、一目で判りますから、頭が良い悪い輩は
いくらでも偽造できそうに思えます。

ICチップが入ってるなら、専用読み取り端末機で情報は読み取れますから
写真と名前だけで良いと思うんですけど、おそらく全国民が一緒じゃないから
とか、全拠点やパトカー、白バイへの読み取り端末機の配備とかの問題なんで
しょうね、きっと。

2009年10月13日

●国宝 彦根城

本日は、9月下旬に訪れてきた彦根城の報告です。

明治初期の廃城令に伴う破却を免れたり、第二次世界大戦時のアメリカの
空襲による焼失を免れ天守が現存しているお城は、弘前城、松本城、丸岡城、
犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城、宇和島、
高知城の12城ですが、このうち松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城は
国宝となっております。

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匡平が撮してきた写真を整理していると、犬山城、松本城、姫路城の写真は
ありましたが彦根城は無く、ひょっとしたらカメラを忘れただけで行ってるかも
知れませんが、残る1城の写真を自分が代わりに撮ってきました。

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詳しいことは 彦根観光協会 のサイトを見て頂くとして、簡単に説明しておきますと、
彦根城は関ヶ原の戦いにて勝利を収めた徳川家康公が、敗れた石田三成公の
佐和山城を取り壊し、徳川四天王の井伊家に築城を命じ天下普請の事業にて
1603年に築城が開始され、1622年に完成しました。

建築に於いては、大津城から天守、佐和山城から佐和口多門櫓と太鼓櫓門、
長浜城からは天秤櫓、小谷城から西ノ丸三重櫓、他にも観音寺城からなどの
移築伝承が多くあり、これら建物や石材の移築転用は工期短縮となり当時の
コスト削減からも行われたもので、他にも天下普請で築城された名古屋城や
姫路城も同様の方法がとられているそうです。

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現在、特別に内部を公開中の佐和口多門櫓の屋内から外を見た風景です。
この景色が見られるのは今だけだそうですよ。

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こちらは全国的にも現存してるのは希な馬屋。
重要文化財として国の特別史跡に指定されてますが、写っている馬は説明を
するまでも無いですが、模型です。

幕末の頃の井伊大老が藩主となるまで過ごした城でもあり、現在、隣接されて
いる彦根城博物館では、"井伊直弼と開国150年祭" が開催されており、詳しく
勉強することができます。

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もっとも、ひこにゃん見たさで訪れる方の方が多いかも知れませんが。
時間帯によっては、なまひこにゃんが見られるそうですので、是非みたい方は
こちらで スケジュールを確認してからお出かけ下さい。

2009年10月10日

●取り壊し工事

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我が家から徒歩1分のところに、今の家に引っ越す前に我が家も住んでいた
県営住宅、いわゆる一般的に言う団地があり、住居ビルが19棟建ってます。
1967年~68年に建てられたもので、老朽化の為に敷地内東側の12棟を壊し
新しく建て直しするそうで、今月から取り壊しが始まりました。

12棟は道路を挟んで4ブロックに別れており、各ブロックを4期に分けて順次
取り壊していくそうで、まず東北の1ブロックの4棟 ( 4階建て2棟と、5階建て
2棟で、合計138戸 ) が取り壊された後に、10階建て( 126戸 )を1棟だけ建て
るそうですが、その後の各ブロックは建て直しでの階数や規模は実施設計を
していく中で、変更も有りえるそうです。

我が家はこの今回取り壊される4棟の内の4階建ての1階に、匡平が保育園に
上がる前まで住んでおりました。
ブロックの4棟の間には小さな公園があって、匡平や長男が小さな頃はよくこの
公園でお友達と暗くなるまで遊んでいただけに、壊されて無くなってしまうのは
とても寂しい気持ちになります。

ただ住まれていた方達が8月までに退去されてからは、夜は真っ暗の建物が
4棟並び、ちょっとゴーストタウンみたいなイメージがありましたから、早めに
取り壊しが始まるのは地域の安全の為にも良いことかも知れません。
しかし、取り壊し工事によってホコリがまったり、ネズミなどの害虫が逃げ出て
くるのは嫌な物です。

以前に市営地下鉄桜通線が、新瑞橋駅から野並駅までの延伸工事の時には、
それまで我が家に居なかったネズミが発生しましたが、今回はどうなんでしょう。

しかし匡平が亡くなった年に、以前に住んでいた所が取り壊されていくとは。
何か不思議な縁を感じてしまいますね。

2009年10月08日

●2回目の、月命日

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2009年10月8日7時30分頃 近所の天白川

今日は、匡平の2回目の月命日です。

お坊さんが月命日のお参りに来て下さるのは、百か日を過ぎた最初の月命日
からですので、いつもと同じ様に朝、仏前でお勤めをしました。

予定どおりですと12月の月命日からお坊さんが来て下さるので、それまでの
月命日は朝から遠方への外出が可能と思い、先月の初めての月命日は匡平が
天国へ行ってしまった現場に行き、お花とお線香と手向けてきました。

そして今日も行ってこようと考えていたのですが、あいにくの台風接近。

我が家は約9年前に、床上70cmの浸水被害を経験しておりますので、昨夜は、
万が一の場合に備えて、いざという時に配線を外すのに手間をとってしまう
デスクトップPCやHDDレコーダーや、他にも大事な物を2階にあげ、各自の
車は高台に駐車しておきました。

そんな前準備をしておいたせいなのか、やはり午前6時頃に天白川の水量が
危険水位を超えたので避難して下さいとの広報車が廻ってきました。
しかし天白川へ見に行ってみるとまだまだ水量は低く、その後、上の写真の
程度まで水量が下がったので、無事に避難解除となりました。
何も被害が無くて良かったです。

という事で昼からはPCやら、電化製品の設置し直しです。

2009年10月06日

●週刊少年ジャンプ

自分は50歳を超えても、漫画好きで愛読書のひとつが"週刊少年ジャンプ"です。
"少年"というタイトルが付いているにも関わらず、オヤジが読んでます。

そのジャンプですが、自分が小学5年生の夏に最初は週刊でなく、月2回発刊で
創刊され、それ以来の愛読書なので愛読歴は 41年になります。

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子供達が小学生ぐらいになると購入費用は自分ですが、ジャンプを買いに行く
係は長男に変わりました。
しかし、長男は成長すると共にだんだんと漫画を読まなくなっていき、その後、
二男の匡平が買う係になってました。

勿論、購入費用はずうっと自分のままでしたから、匡平も漫画好きでしたので
お互いに持ちつ持たれつだったとは思いますが、匡平が居なくなった今、再び
自分が買う係になってしまい、購入してきては仏前に供えております。

ジャンプに掲載されてる漫画では、"ワンピース"と、"ピューと吹く!ジャガー"
の2つが匡平は特に好きでして、単行本も揃えてました。
アニメ化されて世界中で放映されているほど人気がある "ワンピース" は自分も
好きですが、"ピューと吹く!ジャガー"に関しては、ちょっと自分は???

小さい頃の匡平はLEGOが一番でしたが、大人になると"BE@R BRICK"の人形や、
ガンダム系のホビーなどを集めてましたが、ちょっと変わったマイナーキャラ
もんも好きで、先日紹介しました "ロビンくんと100人のお友達" "や、もっと
マイナーキャラな"豆腐親子"などの人形も集めてました。
なのでちょっと変な"ピューと吹く!ジャガー"も、好きだったのかなと思います。

メジャーどころでは自分が収集している鳥山あきら先生や、浦沢直樹先生の
作品が好きで、特に浦沢直樹先生の "PLUTO" に至っては、一時、お互いが
知らずに、2人して同じデラックス版をそれぞれ購入してました。

これらメジャーな作品以外で匡平が独自に集めてたのは、吉田戦車先生や、
古谷実先生などと、思えばやはりちょっと変わったキャラの作品が多かったよう
ですね。

と言う事で、昨日は仕事帰りに毎週月曜発売のジャンプを買って、仏前に供え
させていただきました。

2009年10月04日

●父の、百か日法要

今日もちょっと暗い話ですみません。

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撮影者 : 匡平 2009年7月26日 伊勢神宮

この7月に父が亡くなり、生前、自分が兄弟の中で一番見舞いに行かなかった
親不孝を悔やんで、葬儀後しばらく休日は全て実家に行って草抜きや実家の
修繕等をしてましたが、その約1ヶ月後に匡平が亡くなった事のほうが自分の
中では大きく、それからは仏前に手を合わす事さえしてませんでした。

こんな事を書くと親不孝者と皆さんから叱られそうですが、自分にとっては
育ててくれた父よりも、育てたつもりの息子の方が悲しみは数段上だったん
です。

18歳で進学の為に実家を出るまで父に暮らしてもらった18年間よりも、匡平が
産まれてから亡くなるまで一緒に暮らした25年間の方が長いのは当然ですし、
晩年の16年間は寝たきりとは言え84歳で亡くなった父よりも、僅か25年間の
短い人生でしかなかった匡平の方が可愛そうに思いますが、何よりもやはり
親より子供が可愛いと思う人間の性かも知れません。

そんな中、昨日は父の百か日法要が実家であり、久々に父の仏前でその事を
謝って、若い頃は登山が趣味だった父に、スノボードが好きだった匡平に
天国で車に乗せて連れてって貰ってとお願いしてきました。

先日も書きました様に仏教の世界観では、既に49日を終えた今、父も匡平も
産まれ変わっているとは言われますが、女房としてはそうでは無くてきっと
天国で父や母、そして女房の父達に匡平は再会して、生前の様に可愛がって
もらっていると言ってます。
実際のところは、自分も余所の家の子になるよりは、そうであってほしいと
思います。

そして百か日法要が済んでから、匡平の捜索をしていただいた尾鷲警察署と
紀北町海山消防署、海山消防団の方に御礼に長男と行ってきました。

行く途中に長男と「もう2ヶ月も前の事だし、夏の海や川での遭難事故は多い
から、もう忘れられているかも知れんね~」と話していたのですが、訪ねて
みると応対していただた皆さんは覚えてられてました。

行方不明になった日は晴天でしたが、夜から雨が降り、見つけていただいた
翌日は雨の中、早朝から沢さんの方に一生懸命に探していただき、見つけて
いただいた時にお礼を述べると、皆さん「仕事ですから」と言ってられて、
本当に人に奉仕される仕事なんだなと思い感謝しましたが、あれから2ヶ月
経った昨日、ふたたび感謝の気持ちでいっぱいになりました。
ありがとうございました。

2009年10月02日

●レプリカもんの、安土桃山城

10月になり、今年も衣替え。
季節は夏からすっかり秋に変わりましたね~・・と、言いたいところですが、
いまだに夏布団に、扇風機を廻して寝ております。

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撮影者 : 匡平 2006年秋~2007年春頃 安土城実寸大レプリカ
                         ( 伊勢・安土桃山文化村にて )

現在公開中の邦画「火天の城」にて描かれている、織田信長公が築城された
安土城の天主閣ですが、( 信長公に言わせると、天守閣ではなくて天主閣 )
残念ながら本能寺の変の後に焼失してしまっており、詳細な記録はほとんど
残っておらず、城址は史跡に指定されておりますが、その場所への再建は
認められておりません。

本写真の天守閣は、宮上茂隆氏の安土城天守復元案を忠実に再現された
民間施設の 伊勢・安土桃山村 内に建てられたレプリカ建築物です。

でもレプリカと言って直にバカにするのは、浅はかな考えかも知れません。
現在日本国内の各城跡に建っているお城のほとんどはレプリカでして、現存
する天守閣は僅か12城しかありません。
城によっては、もともと天守閣が無かった城なのにイメージで作られた城も
あるぐらいですから。

実はこの写真、当初、匡平のPCに"広島"なるフォルダ名で、厳島神社などを
撮した写真と一緒に整理されておりました。
「でも、広島に安土城なんてあったっけ?」と不思議に思い、他の写真も一緒に
調べてみたところ、当時は伊勢戦国時代村でしたが運営会社が変わって、今は
伊勢・安土桃山村 の名前のテーマパーク内に建てられたレプリカ建築物と
判明しました。

こういうフォルダ整理、実に匡平らしいですわ。